六 堀田正俊の在城 守谷領一万石

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 寛永四年に土岐頼行が出羽に去つて後、守谷は復一時直領として伊丹播摩守の代官支配となつたが、寛永十九年、堀田加賀守正盛が信州松本から十三万石の城主として下総佐倉に移された時に、他の相馬郡の諸村落と共にその領内に繰り入れられた。正盛はその後老中となり厚く幕府に用いられたが、慶安四年に将軍家光が薨去したので、その生前の知遇に酬えて阿部重次や内田正信等の重臣と共に追腹を切つて殉死した。忌はしい事ではあるが、当時に武家の間に行はれて忠義な行為として推称されて居たことである。
 家光の薨去後、その子の家綱が四代の将軍職を継いたが、その歳の八月に、是等前代に殉死した諸侯の跡式を定め、正盛の嫡子上野介正信には正盛の遺領の内十万石を与へて佐倉の城主とし、残りの二万石は又三男正俊以下の男子にそれぞれ分け与へた。三男の正俊は初め久太郎と称し、己に早くから家光将軍保育の女丈夫として権威のあつた春日局の猶子となり、相模吉岡で三千石を給せられて居たが、茲に父の遺領の内一万石の給与を併せ得て一万三千石となり、守谷城に封ぜられた。八月十六日叙爵して備中守となつたが、それにしてもまだ十二歳の少年であつたので、直に入城はしなかつたと思はれる。当時の守谷領一万石といのうは次の通りである。
 守谷町(高一千六百七十石三斗七升三合)
 乙子村、小山村、鈴塚村、高野村、戸頭村、米の井村、野々井村、稲村、大鹿村、取手村、市の代村、赤法華村、高井村、立沢村、野木崎村、坂手村、大木村(以上相馬郡)、報恩寺村(豊田郡)、青古新田、長渡呂新田、幸田村、青木村(以上筑波郡)
茲に公式に守谷町と書き出されてあることは、取手、水海道はいうまでもなく、笠間や下館まで村と呼ばれてあつた時だけに最も注意して見なければなるまい。
 万治二年に正俊は二十一歳になつたが、恰もその時に兄の佐倉城主堀田正信が時の政治を非議する封書を執政保科正之に致し、無断で居城佐倉に退去したという珍事が出来した。当時に於て許可を得ずして江戸を去つて領地に就くということは異心を抱いたと同一視される重大事であつたので、幕府は直に目付役(めつけやく)を佐倉に派遺して正信に城地からの退去を命じた。それで正信は正俊の居城守谷に移つて後命を待つことになつた。守谷城も特殊な事象を印する所となつたものである。
 やがて幕府は正信の所領を没収し、信州飯田に永預けということにした。為めに正俊も兄弟の故を以て一時遠慮を命ぜられたが、それは直に免るされ、それから七年の後、寛文七年六月に、五千石の加増を点けて上野安中城に移された。
 その後、正俊は累進して老中となり幕政に与かつたが、延宝八年将軍家綱の薨去した際に、時の大老酒井忠清等が、鎌倉の故例に倣い、新たに皇族を将軍に迎えようとしたのを押切つて、家綱の弟の館林宰相綱吉を継嗣とし五代将軍とした。そうした事から綱吉の世になつて勢望一段と盛んに、大老の職に就いて一切の政治を主宰するようになつた。事に臨んで公正厳励、理非を匡して幕府の威令を盛ならしめた所はあつたが剛直に過ぎて寛裕の一面がなかつた為めに人に過まられ、貞享元年八月二十八日、殿中に於て若年寄稲葉石見守正休に刺されて落命した。兎に角これだけの人が、若い間に十七年の長き守谷城主となつてあつたことは特記しなくてはならない。守谷在城中は屡々高野の海禅寺を往訪したといはれ、寛文七年には自ら署名して同寺の為に縁起一巻も書いて居る。