七 酒井河内守忠拳居城 寛文の檢地

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 四代の将軍家綱の時、酒井雅楽頭忠清は大老の職に在つて権威一代を傾け、天下の政治皆その一存に決したほどにあつた。為めに世人は、その屋敷の千代田城大手門の下馬先(げはさき)にあつたので之を下馬将軍と呼んだ。さうした権勢の下に嫡子の忠挙(たゞたか)(初めは与四郡忠明)は部屋住(へやずみ)の身ながら寛永元年十二月十四歳にして叙爵して河内守となり、五年十二月には従四位下に叙せられ、八年十二月二十七日には更に部屋住(へやずみ)料として守谷二万石を給せられた。異常の待遇である。
 超えて寛文十年、忠挙は初入部(はつにうぶ)として金紋先箱(きんもんさきばこ)の行列に威儀を正して守谷城に入つた。滞留の期間は明かでないが翌十一年四月十六日将軍家紅葉山参拝の式には御簾役を勤めて居るからその時には江戸に在つたことが知られる。又この歳の九月には守谷鎮座の八幡宮に大雁又の矢鏃の奉納があつたが、これは使を以ての奉納であらう。当時八幡宮の相当の社殿であつたことはこれからも知られる。
 続いて寛文十三年には、全領土に亘つて繩を入れて画期的な検地を行つた。当役は荻原角右衞門と中村次郎太夫の二人、目付は堀勘右衞門、帳引に当つたのは守谷町名主斎藤徳左衞門と野口理兵衞であつた。「水帳」二巻、「田畑名寄帳」一巻が作成された。かくて在来一千六百七十石三斗七升であつた守谷町の石高は此時に一千八百一石五斗一升五合と改められ、之を以て幕末まで規準として続けられた。
 忠挙は文武に通じ聰明人に勝れた上に、父忠清が権要の地に在つたので、若い時から幕府に重用されて将軍の信任厚く、常に側近に侍して儀礼の折々は大役を奉仕し勢望亦当時に盛んにあつた、その内、延宝八年家綱薨去して子なく、従弟の綱吉が館林から入つて統を継ぐに及び、父忠清は大老を罷めて隠退し、忠挙がその後を承けて領十五万石の内十三万石を以て上州厩橋の城主となつたので、守谷の領土は自然収公されるに至つた。近山六右衞門、万年長次郎両人が代官として一時その後を支配した。
 此時、それまで忠挙の起居した江戸城大手先の父忠清の役邸も同時に収公されて、之れは堀田正俊に給せられた。正俊が若い時に十余年間居城した守谷城は、正俊の去つた後に忠挙の居城となり、忠挙の父と共に在住した江戸の役邸は、今代つて正俊の入ることになつたのは、偶然のことにはあるものの不思議な因縁とすればさうも見るべきである。
 守谷城はかくて忠挙の居城を最終として天和元年以後廃城となり、千年の歴史ある名城も、これから後は唯一旧址として在りし昔の名残りを留めるだけとなつた。幾重にも囲まれた土塁空濠も荊棘にとざされて物寂しく当時を語るものの如く、接するものをして無限の感慨を禁ぜしめぬば已まぬ所と化した。