四代の将軍家綱の薨去後、館林宰相綱吉が入つて将軍職を継いだので、綱吉が館林在城中から側近に在つた牧野備後守成貞は挙げられて御側御用人となり、更に諸侯の列に加えられ、天和三年九月には二万石の加増を受けて五万三千石となり下総の要衝関宿に治することになつた。その時に守谷の地は他の相馬郡の諸村落と共にその領内に編入され牧野氏の治下に入つた。而して斎藤徳左衞門が前領主以来の由緒を以て名主(なぬし)となり、更に割元役(わりもとやく)を命ぜられた。割元役は大庄屋と同じく郡内関宿領諸村落の総支配である。
牧野氏の関宿在城は二十六年で、宝永二年には成貞の子成春の代であつたが、加増を受けて八万石となり三河国吉田に転封を命ぜられ、関宿には吉田城主久世大和守重之が代つて封ぜられた。茲に守谷は当然そのまま久世氏の頷下に入り、斎藤徳左衞門重定の子の源蔵が相馬筑波両郡内二十九ケ村支配大庄屋の命を受けた。此時の相馬郡久世領は、守谷町、辰新田、奥山新田、小山村、乙子村、米の井村、戸頭村、寺田村、台宿村、吉田村、井野村、稲村、高野村、野々井村、鈴塚村の一町十四ケ村で、守谷町の総石高は寛文検地に随つて一千八百石七斗三合、家数は二百四十七軒、人口は六百三人と註されてある。
その後、享保年間になつて、徳川家の近親として田安家が創立され、その領土として奥山新田や、小山など相馬郡内の久世領の四五村落が之に組入れられ、又之に代つて二三の村落が新たに久世領になつたものもあるが、全体に於ては守谷大庄屋支配の村落は幾分少くなつた。その間、寛延三年の秋には、作柄巡見とあつて領主の久世出雲守広明の来つて斎藤家に宿泊滞留されたことなどもある。
明和六年の九月、出雲守広明は奏者番寺社奉行から大阪城代に進み、暫く領土を遠ざかることとなつたので、便宜上所領の内数ケ村の所替(ところがえ)を願い出て、守谷外四ケ村即ち相馬三千石の地の処理不便という所から分家の旗下久世斧三郎広徳の知行所に振替へられるに至つた。この久世家屋敷は江戸小日向に在つたので小日向久世といつて居つた。守谷には蔵屋敷跡に陣屋を置き物成(ものなり)一切を処理する所とした。今の石神松の広場である。斎藤家の当主は源蔵吉高であつたが関宿領当時同様に割元役を命ぜられ、小日向屋敷とも親しく出入して厚遇を受けた。すべて大名に比しては手軽であつて、公子広楽の如きも来つて八日問ほどの長い滞在をしたことさえあつた。それと共に一面には屋敷の経済の不如意であつた所から、年貢米引当(ねんぐまいひきあて)の前借やら、様々の名目を籍つての借用金の強要やらで、苦難も多く、それに耐えられず安永以来屡々本家領えの復帰を願い出るやうになつた。それも容易には実現されなかつたが、天明元年に広明(時に大和守)が老中に進んで東帰したので、漸く希望は有利に展開した。かくて天明七年に会々前年に広明は卒去したが、守谷は相馬五ケ村の鷲の谷、吉田、台宿、井野、貝塚と共にその十二月に市の代、辰新田を加えて計三千三十八石五年、本家久世領に復帰し、多年の宿望を遂げた。
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諸大名の参勤交替を初め、平和の持続から、各地とも往来が繁くなつて、それと共に漸次交通上の制度も整備されるやうになつたが、守谷は脇往還(わきおうかん)として本街道から離れてあつた為めに、僅に諸侯道中としては、笠間の牧野、下妻の井上、谷田部の細川の諸家、それに筑波の護持院、飯沼の弘経寺僧正などの通行位に過ぎなかつたので、中期頃までは格別に迷惑を感ずるほどの課役も受くることなく過ごして来たのであつた。然るに一方水戸街道の要衝に当る取手宿は、往還が頻繁になるに随つて人馬の供給が益々多くなり、その為めに寛延二年以後、守谷も之れが助郷(すけごう)に指定さるることになつた。初めの程は年分人足五六人、馬五六疋というので、さして困厄を感ずるというほとにもなかつたが、年を重ぬるに随つて漸次増加し、遂に農事に多大の支障を及ぼすほどになつたので、安永二年には脇往還として自体の継立(つぎたて)負担がある上に、他村落同様の助郷負担を課せられては耐えられぬ所であるとして、道中奉行まで賦役軽減の陳情書を提出した。その願意は聞き届けられて安永四年に先づ七ケ年半高休役という特典にあつかつた。然るに是れは又替り役勤めを命ぜられた他村落からの抗議となり、相互に類似のことを何回ともなく繰返して遂に幕末までに及んだのであつた。寔に当時に於て、助郷加助郷の課役ということは、何づれの地方を問はず、容易ならざる農村の迷惑となつたものであつて、守谷の如きもその一例である。
歳と共に開墾も進み耕地も増加したが、尚山林は随処に多く、その茂みの間には後年まで野猪や鹿も棲息して農作物を荒し廻はつたので、守谷では附隣の山林村落たる鈴塚、立沢、板戸井、大山の諸村と協力して、年々冬期に猪鹿防人を雇い入れ、領主の許可の下に之れが駆逐に努めた。寛政元年の記録には、その歳に打止めた猪は七頭、鹿は二頭、打止め金は猪一頭一分、鹿二朱など記るされてある。今昔の感に堪えない。
隣村とは領主を異にして居た為めに、時に紛議をかもし出すことも少くなかつた。就中、溜原を巡ぐつて立沢村との間に起つた入会(いりあい)争議は幾たびか勘定奉行まで持出されたが解決せず、前後百余年も継続したものであつた。それが慶応四年に至り初めて境界を明かにして漸くに平和に解決した。その時に、守谷の当事者は、守谷の有に確認された山林を、町民全体に一戸当り四反四畝つつ平等に分配し、永世売買禁止を誓約せしめた。売買禁止の約はやがて破られたが、兎に角階級観念の強かつた当時に於て、大庄屋も名主も、組頭も村役人も、将た小前(こまい)百姓と呼ばれて居つた一般村民も、何等の差別をも立てずに平等に分配処理したことは、今日の見を以てすれば当然のことであるが、当時に於ては異数の美挙であつたと特筆せねばならない。