江戸時代の中頃以後、江戸とか京・大阪とかいうやうな都会地の文化は、何づれも素晴らしい発達を遂げた。商家階級の資産の在るものなどは、町人という名の下に社会的にはさげしまれながらも、その贅沢さは前々の時代には見られぬ所にまで進んだのであつた。然かし一歩農村へ足を踏み入れると、是れは又五十年百年の前と変化らしい変化もなく、昔ながらの質素単純な日常を送つて居たに過ぎなかつた。それもその筈である。守谷地方など、江戸へ僅に十里という近い所にありながら、メツタに出かける人すらなかつた。女などは一生江戸を知らずに過ごすのが普通であつた。都会に文化の花が咲いても田舎には及ばなかつたのである。唯かうした間に、都会地の文化を少しでも田舎に移す上に助けをなしたものは、学者や文人、俳諧師などの、泰平の世のお蔭を受けて旅行の出来やすくなつた為めに、田舎に出て来ては、その地方の庄屋とか名主とか、又は大きな寺などをたづね三日も四日も、乃至は一月も二月も、或は二年にも三年にも亘つて滞留してはのん気に日を送り、集り来るものに江戸の話や世上の珍聞、或は文化的の講説などをしてくれた事であつた。特に守谷は平将門の遺蹟として、古くは軍記物の上にも、近くは芝居や浄瑠璃の上にも、相馬の古御所などと唄はれて世に知られてあつた所から、訪ね来るものも一きは多かつた。名高い人では、文化十二年に、江戸の歌人の清水浜臣が来た。それは帰府の後に書いた「総常日記」に守谷のことが書いてあるのからも知られる。又文化十四年には、国学者の高田与清が来て城山を初め近所の旧蹟をたづね廻はつて居る。「相馬日記」はその時のことを書いた本である。
それから文化七年の六月には、当時の江戸の俳壇に知られた小林一茶が、西林寺に俳名を鶴老といつた義鳳上人を訪ねて来た。その時は城山を初め一ト通り旧蹟を巡覧し
蚊の声や将門殿の隠し水
などの句を二三残して二泊で帰つたが、更に数月後の師走の二十三日、年の暮のあはただしい際に、復たづねて来ては此処に越年し、翌年正月の末まで一ケ月も籠り山西林寺に滞在した。
行く歳や空の名残を守谷まで
の句は、暮に守谷に着いた時のものであり、
我が春も上々吉ぞ梅の花
梅咲くや平親王の御月夜
などは春になつて詠まれたものである。その他「籠り山俳筵発言の序」も書いて居れば、鶴老や天外とは何回かに亘つて連歌の催しもして居る。
その後になつても、一茶は特段に守谷に懐かしみを持つて、その歳の三月にも来れば、翌文化九年の正月にも来ては滞在二十日間の長きに及び、
長の日を食ふや食はずや池の亀
など境内妙見菩薩の池(今埋めらる)の亀を詠んだ句を初め幾多の句を遺して居る。益し家庭の事情から若くして郷里を捨てた一茶は守谷に来て、その風物が信濃なる郷里の柏原に甚だ似通よつて居る所から限りなき愛着と親しみを感じての来訪となつたものでもあらう。文化十一年にはなつかしの故郷信州に帰住することになつたが、その後でも大方毎年一回江戸に出ては、出る毎に、それも着早々必ずや守谷を訪ねることを例となし、文化十四年の最終出府の時にまで及んで居る。さうした事から、守谷の俳壇もその頃は一しきり盛んになつたが、文政以後になつては俳句に替つて狂歌の流行を見るやうになつた。これも時勢の影響であらう、一盃亭数盛の名で知られた斎藤徳左衞門為昭は前には一茶にも親しんだが、此頃になつては狂歌壇の頭首となつた。詠草は「俳諧歌夢風流集」「狂歌三光集」等に載つて居る。
江戸末期になつては、西林寺の寛山和尚や愛宕の渡辺忠兵衞敏矩が、和歌で頭角を表はし、更に明治維新から明治初年かけては、同じく西林寺の応謙上人が天朗の号を以て義之流の名筆を揮ひ、之に対して長龍寺の寛庭和尚が鷺月と号し、大沼枕山や向山黄村など当時の漢詩壇の名流と伍して雅懐を五言七言に托し、枕山や黄村も屡々来つては玄関楼上の一室に詩筵を催した。当時の名残は今に留めてある。
又地方文化の発展に資したものとして江州商人の来住のあつたことも注意しなくてはならない。当時に於ては、何処でも農民は農業にいそしむだけで、商業には携はらなかつた。商売は江州商人が入り込んで之に当つたのが江戸時代の一般的風習であつた。水海道や取手などでも今日大を成せる商家は皆江州からの移住であるが、守谷にも多数の江州商人の移住があつた。角店(かどだな)で知られた上町の平尾氏を初め釜丈といつた平尾一家も江州からの移住であり、新田の近江屋も勿論江州の出である。愛宕の大店に知られた渡辺氏も亦江州商人の土着で呉服商であつたといはれる。更に最も大を成したものでは鍋屋といふがあつた。今の田中氏の邸はその跡で、これは早くも幕末に江州に帰つた。赤法華道と奥山道に鍋山の地名を残して居るのは、その名残りである。