明治の維新で一切の政治体制は革まつた。徳川幕府は仆れて大権は朝廷に復し、旧制は挙げて廃された。関宿藩に於ても之に応じて、明治二年に先づ藩制改革を行い、旧藩主久世謙吉は幼少の身であつたが、更めて知藩事となつた。それから二年にして廃藩置県が断行されて旧藩との領治関係が断たれ、下総の六郡、結城、猿島、岡田、豊田、葛飾、相馬を管区として印旛県が置かれたので、守谷はその管内に入つた。同六年、印旛県は又千葉県と改められた。茲に守谷は更に千葉県の管区に入つた。此時学区制の発布があり、守谷は第十四大区第六小区ということになつた。区には大区長小区長及副長があつて町政処理の事に当つた。下高井村及大木村を連合学区とし、西林寺本堂を仮の校舎として小学校を置いたのもこの時であつて、守谷に小学校の設けられた初めとする。旧陣屋跡の地に新に校舎を建てて之に移つたのは翌七年のことである。
明治八年には、三たび管区編成の変更あり、千葉県管区内の前記六郡は在来新治県を構成して居つた常陸の筑波、河内、信太、行方、鹿島の六郡と共に茨城県に属することとなり、守谷町も茲に茨城県の管下に入つた。同十一年、相馬郡の内、利根川を界として千葉県に属する分は南相馬郡となり、茨城県に属する分は北相馬郡となつた。随つて守谷は北相馬郡の内となつた。辰新田及奥山新田の守谷町に編入されたのも此頃のことである。
明治二十二年には、市町村自治制が布かれ、守谷町は此時を以て附隣の赤法華村及び小山村を合せ、更めて自治町の守谷町となつた。取手や水海道が公に取手町となり水海道町となつたのも此時である。それまでは取手も水海道も繁栄せる商業地ではあつたが、公称は取手村であり水海道村であつて、一般には取手宿水海道駅と呼んで居つた。さうした間にあつて守谷だけは、江戸時代初期から守谷町と公称されたもので、来歴ある旧城下たることを示すものとせなければならない。廃城以後歳を経て落莫たる農村に化したとはいへ、南北に通ぜる街路の如きも、その道幅は極めて広く、八間から九間に及び、中央には溝渠が縦貫してあつた。鷹場なる城下の面影を止めたものである。今の道幅五間といふ街路になつたのは明治二十二年に県道に編入され道路改修が行はれた結果からである。道路改修といえば、今日では概して道路幅員拡張を意味するやうに考えられるが常識であるが、守谷の場合は之に反して縮少されたもので、是を以てしても、古くから守谷が如何に堂々たる威容を持した町であつたかを知るに足りよう。
神社仏閣の如きも、幕末から明治初年にかけ、或は廃祠廃寺となり又は荒廃に委したものも少くないが、それでも八坂神社や愛宕神社は今に神祠として厳乎たる存在を保ち、寺では西林寺(天台)、長龍寺(曹洞禅)、雲天寺(浄土)、浄泉寺(同)、永泉寺(真宗)の五ケ寺がある。その外神祠で、夷宮、稲荷神社など廃祠となつたものもあるが、八幡神社、日枝山王社などは尚形を止めて居る。全然廃寺になつたものには、西福寺(天台)、妙覚院(天台)、観音寺(天台)、光明寺(修験)、徳宝院(〃)、西教寺(同前)などがある。大日堂は今は堂宇を止めないが、薬師堂はなお堂宇を保ち本尊薬師尊に十二神将まで揃つて居る。獺弁天に妙見廓、浄円寺に法華坊なども亦地名として有りし昔の名残を今に留めて居るものとする。何づれも往時の城下の威容を今に伝うるものでなくてはならない。特に西林寺にはサキに文部大臣から重要美術品に指定された天海僧正賛の徳川家康画像を伝え、長龍寺には古文書として浅野長政木村重茲署名の守護不入の禁制を伝えて居る。雲天寺所蔵の祐天上人木像亦特記すべきものとする。西林寺所蔵の狩野尚信筆横二間の大涅槃の仏画と、名作と知られた西福寺の観音坐像の木彫仏の明治二十三年の火災に亡滅したのは惜むべきであつた。
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明治二十二年の町村制の実施に伴い、在来官命に因つての戸長又は人民総代などいうものは消滅して、町民の選挙に因る町長及び町会議員等の機関によつて町の一切は運営されることになり、初代の町長としては平尾譲吉が挙げられた。町役場は仲町に置かれた。是より先き警部補署長を以ての取手警察署守谷分署も置かれたが、その後十余年にして廃されて巡査部長派出所となつた。守谷郵便局の置かれたのは明治十一年で、龍ケ崎裁判所出張所(登記所)の置かれたのは明治二十五年の交とする。
大正二年には常総鉄道が開通して交通の便が開けた。此時に停車場は町の北端新町裏に置かれたので、在来山林田畝であつた此方面は一挙にして街衢を成し、栄町の町名を附せられたが、その町名をそのままに急速な発展を遂げて一繁昌地区を成すに至つた。その後更に太平洋戦争の勃発に当り、昭和十七年、これより更に北数町字黒内と呼ばれる山林地帯に海老原軍事工業株式会社が設置されて軍事工場が出来、それに隣接する一帯の地域も共に会社関係者の住宅地となり状勢の一変換を見るに至つた。終戦と共に軍事会社は閉鎖されたが、それと同時に東京が戦災に罹つて居住を失つた人々の移住がこの方面に激増することとなつて、土塔から土塔裏、更に田圃を超えて北園などに至るまで、それぞれ一区を成した住宅地となり、守谷の中心もおのづから北移する傾向をさへ見るに至つた。
全人口は昭和二十七年末に四千八百を算した。之を享保当時総人口一千前後というに対して格段の相違とせなければならない。
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昭和二十九年、在来の町村を随所合併して大町村とする国策の下に、国家の慫慂から各地に町村の合併が行はれたが、守谷町に於ても隣接する高野村大野村及大井沢村との合併を遂げ、更に之に高井村の同地部落その他を合せ、新たに守谷町の町名の下に昭和三十年三月一日を期して発足することになつた。
高野村は、もと高野、乙子、鈴塚、大野村は、野木崎、大柏、大井沢村は、大木、板戸井、立沢、大山等の各部落から構成され、それ等の各部落は明治二十二年までは何つれも独立した一村を形成して居つたもので、それだけに皆それぞれ別個の伝統と来歴を保つて居る。合併当時に於ての一町三ケ村の面積及人口は次ぎの通りである。
守谷町 面積 八、五五平方粁 人口 四、八一七人
大野村 〃 八、二二〃 〃 二、五七七人
高野村 〃 六、二九〃 〃 一、七二四人
大井沢村〃 一一、二五〃 〃 二、六九六人
(昭和二十九年七月現在)