幷守谷の地名

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 相馬郷といふ名の古書に見えたのは、東大寺所傳養老五年の戸籍にあるのを最古とし、それには倉麻郡といふ文字を用ひて居る。相馬郡といふ文字を以てした最古のものは、コレモ東大寺所藏古文書で、天平寶字六年のものに、相馬郡大井郷とあるのを初めとする。續いて「萬葉集」卷二十にも相馬郡上丁大伴子羊があり、「三代實錄」貞觀六年紀にも、十一月二十二日條に、勅復二下總國葛飾印旛相馬埴生猿島五郡百姓調庸一とあり「神風抄」にも下總國相馬御厨の語がある。又「和名抄」には、之を佐宇萬と訓し、「殘篇風土記」には雙麻郡、雙麻郷、雙麻湊などの稱が見られる。抑も「さうま」の語原に就いては、先學已に説を爲して沮洳澤を爲す。即ち眞沼(さぬま)から轉化したものといふもあり、數流水曲を爲す。即ち眞水(さくま)曲の義であらうといふものもある。今現に千葉縣に屬して居る南相馬郡の地と、茨城縣に屬せる北相馬郡とを合せて、明治十年以前の相馬郡を一區域として、其の地勢を按ずるに、今の利根川の河道は往昔の河道ではないが、已に藺沼といふ名稱が殘つて居ることによつても、今の流域は往昔の大沼澤であつたことが知られる。又手賀沼も今は四周干拓して流域を狹められてあるが、往昔の手賀沼は今に數倍した大さを持つたものであることは地形の上からも之を推斷するに充分である。それから菅生沼にしても、守谷沼にしても、貝塚沼にしても、明治以後に於て大半は拓かれて水田となつて居るが、之れも往昔に於ては當然廣大な地區に亘つて漫々たる水を湛へて居つた所である。要するに相馬郡の境地は、その六七割を水澤として四割乃至三割を丘陵田園の陸地としたのが往昔の狀態とすべきであらう。「總風土記」相馬郡の條に、名浦三湊二、と擧げてあるなど、蓋し海に遠く、大湖水に遠い現在の相馬郡を以てしては解すべからざる所であるが、とかく水澤列なる往昔の相馬郡を推想するに於て、初めて之を釋明し得る所とする。然らば眞沼にしても眞水曲にしても、沮洳の境であつたが爲めに、さうまの稱を得たものであることが首肯さるゝ事とならう。
 今の守谷の地は、その位置幾分北に偏するとはいへ、郡の中部を大沼澤とすれば、大体に於て、中央要樞の地點にあると觀るべきである。古く郡司官衙の所在地は守谷たるべしと説くものもあるが、それは何づれとしても、守谷を中心として附近數里の間の村里を包容したものが、古くから稱へられた相馬郷であつたらうことは、時代は降るが戰國時代から江戸初世頃のもので、守谷を呼ぶに相馬郷又相馬庄の名を以てした文書の今に殘存せるものゝあることからも知ることが出來る。二三の例を次に擧げて見る。
 天正十八年五月淺野長政木村重茲禁制
   下總國北相馬庄内  長龍寺
 天正十九年十一月德川家康朱印寄進狀
   下總國相馬郡相馬郷の内  長龍寺
 天正十九年十一月德川家康朱印寄進狀
   下總國相馬郡相馬郷  西林寺
 天正十九年十一月德川家康朱印寄進狀
   下總相馬郡相郷郷ノ内  八幡
 此に在る八幡は相馬惚代八幡宮で、守谷を東南に亘る一里半、寺原村寺田地内に鎭座するものであるが、古くから相馬惣代の故を以て守谷町の飛地として記録されたものである。寺田村に編入されたのは明治五年以後のことゝする。
 寺社の寄進狀や禁制の形式は大体に於て前地頭のものを踏襲するのを例とする。即ち天正十八年の家康が寄進狀に相馬郷とあればその以前のものも相馬郷と記るされてあつたと認むべきである。よし然らずとするも、當時までは守谷地方は相馬郷又相馬庄と呼んで居つたことは明かなる事實とせなければならない。特に惣代八幡の如き相馬總代なるが故に守谷の飛地と取扱はれてあるなど、彼是以て相馬郡の相馬郷といふは守谷がその中心地たることを證するものとすべきであらう。
 因みに、淸宮淸堅が「下總國舊事考」には、相馬郷を考證して、詳かならぬも、試に言へば立木村かとし、村岡良弼が「地理志科」には大鹿村かといふて居る。一は式内神社の在る所からの推測であり、一は天正十八年大鹿弘經寺に相馬郷とあるからの臆斷であるが、大鹿村は相馬郷中に包含されてあると見るべきである。又現に藤代、宮和田の二部落を合せて相馬町といふがあるが之れは明治二十二年町村倂合の際の命名で、意義のあつてのものではない。
 次に守谷の名稱を考ふるに、そのもりやと呼ぶ語原に就いては、或は日本武尊東征の際に、此地方一帶が欝然たる森林をなしてあつたので、もりやと名づけられたといふ説もあり、又大連物部守屋の部曲の私田の所在地たる所から、御名代や御子代の例に依つて名づけられたものであらうといふ説もある。又相馬御厨(みくりや)の所在地として、「まもりひと」の屋舍の在つた所から「もりや」と稱されたに起るといふ説もある。又屯倉の所在地として守り人の居りし所に起因するといふ説もある。要するに、茫漠たる往古に屬することであつて、適確たることは求むべき術もない。唯相馬郡の要樞に位置するので、屯倉も置かれたであらう。その「もりびと」の居りしよりもりやの名の起りしといふ説など首肯し得べきものでもあらう。兎も角も長い間、相馬郷の名によつて多く呼ばれたので守谷の名は寧ろ之に蔽はれて著はれることの少いやうにもあつた。記錄文書の上に、守谷、又守屋、森屋などの文字を以て、此地が記るされるやうになつたのを見るのは、室町中世以後のことに屬する。
 愛宕神社には元和七年守谷城主土岐内膳介奉納の青銅鰐口があるが、之には下總相馬之郡森屋郷と刻し、大工小磯某の所在地は内森屋郷としてある。寛文十一年鑄長龍寺の梵鐘の銘には守谷之郷土塔村としてある。慶安四年の記錄には守谷町と明記されてある。
  長龍寺の梵鐘は昭和十八年太平洋戰爭に當り金屬供出の折に金屬應召として提供され、今は存在しない。