(一)師常以前

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 關八州の大半を略して一時天下を震駭した平將門が暴威も、順逆を過まりしもの素より天日の照鑑に適ふべからず、一敗地にまびれて、擧げられたる首級は、遙に京都に致して都大路を渡され、怨恨獨り殘りて八州の故地に止まるといはれた。世に荒ぶる神として恐れられたるのも、此種の消息を傳ふるものでなくてはならない。將門に關する祠宇の東國の隨處に散在するのも、亦それから來た所とする。斯くて在りにし迹は、繁る草木に地は蔽はれ、訪ひ來ん人とてもなければ、やがて是れ狐狸の巣窟ともなつたのである。後の世に荒發せる殿樓といへば、或は相馬の古御所と呼び、又は相馬の古内裏といふ名を以て、狂言綺語の上に綴られるに至つたのは、逞しい想像から出發した舞文の巧といふまでゞはあるが、亦この名によつて、人を爾かくうなづかしめ想像せしめた所に何ものかゞなくてはなるまい。
 世に「信太系圖」といふものがある。試みにそれに記する所を觀れば、將門以後のことを次のやうに言ふてある。
 將門に十二子あり、長將望は早世し、次將國家を繼ぎたるも、將門戰歿の後は、流浪の間に纔にその生を保ち、その子文國に至つて、常陸國信太郡(今の稻敷郡の一部)浮島在住の舊臣浮島太夫國豐の庇護を受けて漸く立つた。爾來假りに信太を以て氏とす。然るに其の子兼賴に至り、其の族小山太郎行重に追はれ再び淪落の淵に沈むに及んだ。それより四代を過ぎて小太郎重國に至り信太を出てゝ下總に入り、遠祖の遺蹟を尋ねて守谷に移り、荒廢せる城地を修めて之を居とし、地名をそのまゝに相馬氏を稱した。時恰も源平爭亂の萠芽を見た時に當り、宛然地方に重きを爲し、重國の子胤國に傳へたが、胤國に子がなかつたので、豪族千葉常胤の二子師常を迎へて後を繼がしめた。かくて、これより後相馬氏は千葉氏の一族となる云々。
 されとも「信太系圖」は後世の僞作として信憑出來ないものであるといふことが史界の通説となつて居るから比らく之れは採らない。次に「千葉系圖」を觀るに、これには又次のやうに記るされてある。
 將門の歿後、其の弟將賴が相馬御厨の下司を繼承して御厨三郎と稱し、それに續いて將門の叔父武藏大椽良文の三男恒明が忠賴と其の名を改めて相馬御厨の下司となり、相馬氏を稱した。其の子忠常は更に千葉に移つて千葉と稱した。千葉、相馬、秩父、山邊、葛西、澁谷、江戸、川越以下武總の豪族百餘家は皆其の一黨といはれる。それより數傳して千葉常胤の時に至り、常胤の次男師常が相馬氏を承けて相馬二郎と稱した云々。
 何づれにしても、將門以後二百餘年間、相馬氏の消息は甚だ明かでない、殆んど斷へたものと觀るが至當でもあらう、相馬氏の名の大に著はれるに至つたのは、師常が千葉から入つて之を繼いた以後のことに屬する。それにしても千葉家がその勢を張る上に、特に次男師常を以て相馬家を承けしめたことは、相馬の姓氏が此地方に重きをなして居つたものであることを窺はしむるに充分としよう。