(二)師常及其の後

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 師常は相馬二郡と稱し守谷に居城して武威附隣を壓し、千葉六黨の隨一と推された。治承四年源賴朝が以仁王の令旨を奉じて兵を伊豆の配處に舉げ、一たび敗れたが再擧して下總に現はるゝや、師常は父常胤と共に、九月十七日を以て赴いて之に國府に參會した。その時の事を鎌倉幕府の記錄「吾妻鏡」には、次のやうに記るして居る。
 治承四年九月十七日
 不レ待二廣常參入一、令レ向二下總國一給、千葉介常胤、相二具子息太郎胤正、次郎師常號相馬、三郎胤成武石、四郎胤信大須賀、五郎胤道國分、六郎太夫胤賴東、嫡孫小太郎成胤等一參二會下總國府一
 爾來、師常が父常胤と共に賴朝に仕へて勳功のあつたことは「吾妻鏡」の隨處に見られる所であるが、特に常胤は最も賴朝の信賴を蒙り、多くはその側近に在り、事ある每に獻上もすれば又數々の恩賞にも與かつた。御臺所政子懷胎の時には着帶の事にも當つて居る。それだけに師常も亦父と共に賴朝に重用されてあつたことは之を推想するに難しとせない。現に壽永元年八月十八日、賴朝息子誕生七夜の祝儀の時の如き、父常胤、兄胤正、弟胤盛、胤信、胤道、胤賴等と共に參殿して鳴絃の役を勤めて居る。それを「吾妻鏡」は亦次のやうに記るして居る。
 八月十八日(若君出生七夜)七夜儀、千葉介常胤沙二汰之一、常胤相二具其子息六人一著二侍上一、父子裝二白水干袴一、以二胤正母一爲二御前陪膳一、又有二進物一、嫡男胤正、次男師常舁二御申一、三男胤盛、四男胤信引二御馬一、五男胤道持二御弓箭一、六男胤賴御劔各列二庭上一、兄弟皆容儀神妙士也、武衛殊令レ感レ之給、諸人又壯觀、
 續いて壽永三年二月平家追討の陣には、師常又父常胤と共に範賴の軍に加はつた。「吾妻鏡」には大手大將軍蒲冠者範賴也
 相從輩
 小山四郎朝政…(中略)…千葉介常胤…(中略)…相馬次郎師常…
 と擧げて居る。中國の役、西海の戰、範賴復命の辞に、常胤老骨ながら功勞不尠といふて居るのは亦おのづから師常等奮鬪の並々ならぬことを知らしむるものであらう。されば戰後に、師常は特にその功を賞されて、下總國相馬郡猿島郡結城郡及豐田郡恩賞の御敎書を賜はつた。又文治元年十月十八日南御堂勝長壽院供養の際の行列には、一の御馬千葉介常胤とあるに續いて九の御馬千葉次郎師常とある。續いて文治五年賴朝が奥州藤原氏討伐の軍にも加はつて戰功あり、役後恩賞として奥州に於て行方郡(或はいふ行方宇多兩郡)を授けられた。それが後年に至り相馬氏の一族が奥州に下り、奥州相馬を稱して其の地に榮ふるに至つた基礎となつたものとする。
 師常が鎌倉の邸は巽の方荒神の邊に在り、相馬天王祠は即ちその邸内に祀られた守護神であつたが、これは今綱引地藏山の西麓岩窟の内に移されてある。元久二年十一月十五日、年六十七を以て端坐合掌しての決定往生を遂げた、五輪から成るその墳墓は今も扇ケ谷の丘麓に建つて居る。