師常が事は以上記るしたやうに「吾妻鏡」によつて正確な史實を知り得るが、師常以後の事になると、又傳ふる所も少く、僅に殘る記錄も言ふ所區々にして相一致せざるものが多く、之を明かに爲し難い、今大綱を兩相馬家系圖に採り、之に軍記物語や文書類を參照して知らるゝ限りを討究して見ることゝする。
「相馬系圖」に據るに、師常以後、義胤相馬五郎、胤綱相馬小次郎、胤繼相馬小太郎(一本二郎兵衞)胤經相馬五郎又左衞門尉、胤盛四郎左衞門尉を經て胤村に至るとある。胤村孫五郎といひ又五郎左衛門尉と稱す、胤村に九子あり、胤氏、胤顯、胤重、有胤、師胤、胤朝、胤實、胤通、胤門といふ。永仁二年胤村歿して其の遺跡を是等九子に分つた。之を後々まで永仁御分配の語を以て傳へて居ることは奥州相馬家傳ふる所の「永仁御分配系圖」に記るしてある。或は一本には胤村の子を胤氏、師胤の二人とするものもある。兎も角も、胤氏、師胤の二人が著聞したものであることは明かである。
胤氏に二子あり、胤基、胤忠といひ、師胤の子を孫五郎重胤といつた、一族ながら、胤基、胤忠と重胤とは相善からず、重胤は元享三年二月この相馬の地を棄て主從十三騎身を修驗者に變じ一路文治以來相傳の領地として保有せる奥州太田吉原の地を志し、白河口より奥州に入り標葉の津島から鐵山を經て横川(太田川の上流)に沿ひ片倉の八重米坂に着いた。其處に相馬から遙々奉じ來つた守護神の妙見尊に日鷲宮鹽釜宮の三尊體を安んじたといふことであつた。今にその古跡を殘して居る重胤は此處に上太田石積在住の舊家臣太田兵衞に迎へられて一時其の邸に就き、更にその東數町、別所の館に居住せる三浦左近から其の館の提供を受けて之に移り、それより四年の後嘉暦元年に遂に小高に居を構へて以て後年に及んだとある。而して此時太田の館址には妙見祠を奉祀した。是れ今日に至るまで太田村を以て奥州相馬發祥の地とする所以であつて、同村には今に重胤に隨つて下總の岡村より移り來れるもの岡の百姓と稱して八戸を殘して居る。是等は明治維新前までは、每年初春に中村の相馬家城門の門松注連飾をなす任とし、城中に於て赤飯の振舞を受けて居つたといはれる。其の他、妙見祠官田代左衞門、木幡源内、西山左兵衛など、何づれも下總隨伴の來歷を有するものといふ。
重胤は延元の亂に斯波陸奥守家長に黨して足利尊氏に屬し、北畠顯家の東下を西相模の片瀨川に邀ひ戰つたが、敗れて鎌倉に退き、法華堂に自刄した。後足利氏の世になつて、足利氏は重胤の功を追賞してその遺兒盛胤を擧げ、奥州行方庄安堵の敎書を與へた。
以上相馬家の二分して下總と奥州とに別れ立つに至つた梗概である。これより以後、守谷に殘つた胤氏の子孫は、吉野朝に忠誠を擢でゝ當時に宮方相馬と呼ばれ、奥州相馬氏と區別さるゝやうになつた。
故地に殘つた相馬氏にあつては、胤忠の子の忠重が四郎左衛門と稱し勤王に盡して最も聞えた。忠重特に强弓を以て知られ、父祖に從つて屢々京畿の間に往來したが、就中延元元年六月、足利軍の西國よりの再上によつて、楠木正成は湊川に戰死し、後醍醐天皇は二度目の山門行幸を據なくされたのであつたが、忠重は此際にも之に供奉し、寄せ來る足利勢を山の中腹に拒ぎ、遠矢を以て武名を現はしたといふこと、「太平記」にも明記されてある。其の後北畠親房が東國に下りて小田城に據り正義の大旒を飜して天下の志氣を鼓舞した時に於ても、忠重は春日中將顯時を我が守谷城内に迎へ、千葉一黨と共に小田城に呼應して官軍の爲めに氣を吐いた。之れが爲めに房總方面の賊徒は戰はずして潰ひ、延いて中御門少將實寬の據つて居つて駒城の攻圍軍の氣勢を挫き、一時ながらも官軍の頽勢を有利に挽回せしめたことは特筆せなくてはならぬ事としよう。
「太平記」卷十七
山門攻の事附日吉神詫の事
(前略)六月十七日の辰尅に、廿萬騎の大勢、熊野の八庄司が五百餘人を先きに立てゝ、松尾坂の尾崎よりかずきつれてぞ上りたりける、官軍の方に綿貫五郎左衛門、池田五郎、本間孫四郎、相馬四郎左衛門とて十萬騎が中より勝り出されたる强力の手垂あり、池田と綿貫とは時節東坂本へ遣はされて居合はざれば、本間と相馬と二人、義貞の御前に侯ひけるが熊野の人どもの眞黑に裏みつれて攻め上りけるを遙に見下し、から/\と打笑ひ、今日の軍に御方の兵に太刀をも拔せ侯ふまじ矢一つをも射させ俟まじ、我等二人罷り向ひて一矢仕りて奴原に肝をつぶさせ候はんと申し、最と閑かに座席をぞ立たりける、猶も弓を强く引かんために、着たる鎧を脫ぎ置きて脇立ばかりに大童になり、白木の弓のほこ短には見えけれども尋常の弓に立ち雙べたりければ今二尺餘ほこ長にて曲高なるを大木どもに押撓め、ゆら/\と押し張り白鳥の羽にてはぎたる矢の、十五東三伏ありけるを、百矢の中より只二筋拔きて弓に取り副へ誂歌うたひて閑々と向の尾へ渡れば、後に立ちたる相馬、銀のつく打ちたる弓の普通の弓四五人張幷せたる程なると、左の肩に打ちかたけて金滋頭二つ箆撓に取り添へて道々撓め直し、爪よりて一群茂る松蔭に、人交もなく只二人弓杖突きてぞ立ちたりける、爰に是ぞ聞えたる八庄司が内の大力よと覺えて、長八尺ばかりなる男の一荒荒れたるが鎖の上に黑皮の鎧を着、五枚甲の緖を縮め半頰の面に朱をさして、九尺ばかりに見えたる樫木の棒を左の手に拳り猪の目透したる鉞の齒の渡り一尺ばかりあるを右の肩に振りかたげて少しもためらふ氣色なく小跳して登る有樣は摩醘修羅王夜又羅刹の怒れる姿に異ならず、あはひ二町ばかり近つきて本間小松の陰より立ち顯れ件の弓に十五束三伏忘るゝばかり引きしほりひやうと射わたす、志に處の矢弓を少しも違はず鎧の弦走より總角付の板まで裏面五重を懸けず射徹して矢さき三寸ばかりちしほに染みて出てたりければ鬼が神かと見えつる熊野人持ちける鉞を持ち捨てゝ小篠の上にどうと伏す其次に是も熊野人かと覺えて先の男に一かさ倍して二王を作り損じたる如くなる武者の眼さかさまに裂け鬚左右へ分れたるが緋威の鎧に龍頭の甲の緖を縮め八尺三寸の長刀に四尺餘の太刀帶きて射向けの袖をさしかざし後を吃と見て遠矢な射ぞ矢だうなにといふまゝに鎧づしきて上りける處を相馬四郎左衛門五人張に十四束三伏の金磁頭くつ卷を殘さす引きつめて弦音高く切りて放つ、手答とすがひ拍子に聞えて甲の眞向より眉間の腦を碎きて鋒着の板の横縫きれて矢じりの見ゆるばかりに射籠みたりければあつといふ聲と共に倒れて矢庭に二人死にけり、跡に繼ぎける熊野勢五百餘人此矢二筋を見て前へも進まず後へも歸らず皆背をくゞめてぞ立ちたりける。本間と相馬と二人ながら是をば少しも見ぬよしにて御方の兵の二町ばかり隔りたる向の尾に陣を取りて居たりけるに向ひて例ならず敵どものはたらき候は軍の候はんずるやらんならしに一つづゝ射て見候はん何にても的に立させ給へといひたれば是遊ばし候へとて皆紅の扇に月出したるを矢に挟みて遠的場だてにぞ立ちたりける、本間は前に立ち相馬は後に立ちて月を射ば天の恐れもありぬべし兩方のはづれを射んとするぞと約束して本間はたと射れば相馬もはたと射る矢所約束に違はず中なる月をぞ殘しける。其後百矢二腰取り寄せて張がへの弓の寸引して相模國の住人本間孫四郎資武、下總國の住人相馬四郎左衛門尉忠重、二人此陣を堅めて侯ふぞ矢少々うけて物具の眞の程御覽候へと高らかに名のりければ後なる寄手二十萬騎相迫ふとしもなけれど我先にとふためきて又本の陣へ引き返す。