(四)戰國時代の相馬氏 守谷城の地位

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 後醍醐天皇が英邁の天資を持して企て給ひし回天の偉業も、時利あらず事は中道に破れ、龍駕再び都を出て後還り給はず、南の方吉野に幸して之を行在を爲し給ひしより、暫くの間、世は南朝北朝と分れ、武家は宮方武家方と呼び合ひ互に相拮抗したものゝ世を經るに隨つて、勤王の諸將は次々に倒れ、南風遂に競はず、紛爭五十七年、後龜山天皇の御時に至りて、已むなくも車駕還幸、神器を後小松天皇に授けられ、兵亂は兎も角も一時に收まりて、足利氏は室町公方の名を以て天下に臨むに至つた。さはれ柳營の鼎の輕重を問ふものは、已に覇府を開いたその當時から所在に多く存在し、中々に國々は泰平を謳歌するの段ではなかつた。特に關東の野は足利氏の舊地でもあり、尊氏の子義詮が早くも管領の名を以て鎌倉に治し、爾後近親次々にその職を襲ふて、府治の舊慣を趁ひ、以て八州を統べんとしたのであつたが、名正しからざる所、人の歸服もあるべからず、武威も初めより振はず、補佐執政の地に在るもの早くも上を剋して己れの權力を縱まにせんとするもの次から次へと現れに至る珍現象をさへ見せしめたものであつた。即ち、應永十六年足利滿兼の子持氏が若年を以て父に繼いて關東管領となるや、執筆上杉氏憲は之を欣ばず、持氏の叔父足利滿隆の管領を望むの野心あるを知つて之を煽動して反を圖らしめ、同二十三年十月に、遂に持氏を鎌倉から追ふに至つた。此時相馬氏は忠重の後を承けて胤長が當主であつたが(胤長を以て忠重の弟又子とするものあるも、忠重と胤長の時とは五六十年の間隔あり父子兄弟とするには相適はず)千葉胤直父子に共に氏憲を援けて、持氏を追ふに努めたといはれる。然るに翌二十四年には持氏の再起あり氏憲等は敗れて戰死した。されども此時は相馬氏には何等その影響はなかつたものゝ如く相馬百三十餘村の領有を繼續して依然として地方に重きをなし以て後年に及んだ。
 康正元年、鎌倉亡びて、持氏の子成氏は下總古河に遁れ、此處に館を構へて上杉氏に抗することゝなつた。之を世に古河公方と呼んだ。是に於て束國の諸族は、おのづから古河公方に屬するものと、鎌倉の上杉氏に歸するものとの二つに分れて、分野が明かになつた。その時、千葉の千葉氏は小山城の小山氏、結城城の結城氏、關宿城の梁田氏、小田城の小田氏、安房の里見氏などと共に、古河公方を援けたもので、相馬氏も當然是等諸氏とその行動を共にした。
 斯くして關東の野は、應仁の大亂を待たずして、早くも日に夜に烽火を仰ぎ鼓響を耳にする境地と化したが、會々伊豆に起つた伊勢長氏は小田原城を略して北條氏を稱し、早雲と號して威を振ひ傳へて其の子氏綱、其の孫氏康に及び、永正大永から天文に亘り、相模を略して武藏を取り、古河公方を壓し上杉氏を追ひ、里見氏を屠り千葉氏を從へ、遂に關八州の大半を其の手中に收むるに至つた。唯終に常陸の北方に佐竹氏あり、太田から出でゝ水戸城に據り、西は下野の東部、北は陸奥亘る廣大なる勢力を持して之に對抗したのが目立つばかりであつた。時の守谷の城主は相馬小治郎胤高であつたが、天文十八年の春、千葉介重胤と共に好を小田原城に通じて北條氏康に就くことになつた。
 此間、古河公方は成氏より政氏、高基、睛氏に傳へ、或は兩上杉と和し、又は北條氏と結び、態度必ずしも一貫するものゝなかつたのは、家名徒に高きを持するも、實力は日を追ふて微弱となり自ら主力となつて與黨を率ゆること能はず、右顧左眄その家運を支ふるに汲々たる所から來たものとする。特に睛氏の時に至つて勢力愈々微に、一時は兩上杉氏とも結びて北篠氏に抗したこともあつたが、其の後は、或は和し、或は抗し、天文二十三年には、其の子藤氏、義政と共に擒はれて小田原に致され、又鎌倉に移りては葛西谷に居を與へられて其處に佗しき生活を送るやうになつた。この間睛氏は小山高朝や、守谷城主相馬左近太夫治胤等と謀り、古河復興を企圖したこともあつたが素より成功するものではなかつた。其の後、永祿二年十二月に、北篠氏康は家をその子氏政に讓りて隱居し、その翌三年五月には睛氏の庶子義氏を立てゝ古河公方となし、藤氏、義政の兄弟は讓倉より伊豆の大島に流された。睛氏はそれ等の迹に觀て悶々の情禁ぜず、欝憤を懷いてその月の二十五日に遂に鎌倉に歿した。
 茲に北條氏の庇保の下に新たに公方の名を得た義氏は、一時は關宿に移つて梁田氏に據つたが、幾くならず小田原に去り、又鎌倉に抵るなど、各所を來往して歳を重ねた。蓋し成氏以來の居城であつた古河が、新たに東國に勢力を張り來つた上杉輝虎の脅威下に暴露されて、その居住に適せざるに至つたが爲めではあつたが、さりとて下總歸住は之を望んで巳まず一日と雖もその念頭を去るものではなかつた、是に於て永祿九年八月、守谷城主相馬治胤は、その地勢と、その要害と、最も安全なる居城として、守谷城の提供を申出でたので、北條氏政は大に喜び、近臣を遣はして城地の檢分を遂げ、先づ義氏の侍臣を移したのであつたが、公方の移居といふことは之を實現するに至らずして已んだ。何等かの事情のあつたものと見る。守谷城がその規模を擴大にして修築の工を起されたのはこの時の事に屬すると思はれる。かくて公方の守谷移居が實現するに至らずして已んだのを見るや、關宿の梁田晴助は、古河が本來關宿の屬城であつたのを理由に、古河の代償として守谷城を自領に收めたきことを申出たのであつたが、之れは氏政が許さなかつた。
 かくて此頃に於ては、守谷の相馬氏は、蔚然たる地方の一豪族ではあつたが、小田原北條氏の配下として、其の一黨と共に、佐竹氏やその與黨下妻の多賀谷氏に當り、之に對して一强國たるの實を示して居つたものである。その間の消息は、北條氏政及氏直等から致された左記二通の古文書及相馬一家連名帳からも之を知り得る事とする。
            ○
 越名幸島口へ可打下地其聞候、然者當許之備者無異議候、手遠候共、其口之儀無心元候間、被立越候人衆早々返候、堅固之防戰肝要候、若敵之動相違此方手前之用所有之者近盡申候、恐々謹言
    潤十一月十三日                     氏政(花押)
     相馬左近太夫殿
            ○
 今度佐竹向其表相勤處、防戰堅固故早速敵退心地好肝要至極候、爲其以使申候、仍刀一包永幷三種一荷進之候、委細可在口上候 恐々謹言
    九月二十三日                      氏直(花押)
     相馬左近太夫段
   ○永ハ永樂錢
   ○以上二通佐竹氏對陣干係ヲ見ルベキモノ、元小田原相馬胤盈氏所藏現高井村廣瀨氏所藏
            ○
  〔相馬一家連名帳〕
  天正九年
  相馬左近太夫治胤
  高井小次郎 胤永
  筒戸小三郎 胤房
  菅生越前守 胤貞
  筒戸小四郎 胤文
  岩堀主馬頭 弘助
  大木駿河守 胤淸
         (以下略)
 即ち相馬左近太夫治胤は、相馬一族の宗家として守谷に居城し、之を遶りて高井(今の高井村下高井)筒戸(今の小絹村筒戸)菅谷(今の菅生村)大木(今の大井澤村大木)等に一族近類を配置し。地方に一勢力を持して居つたことは之を明かにすべく、而して强雄佐竹氏の侵略に對しても、克く之を防備してその暴威を振はしめなかつたことは、相當の力であつたと見なくてはならない、今古老の間に傳はつて居る左の早歌は、この當時からのものとして知られてある。
 和田のでぐちのごほえの木(五本榎カ)本は稻村、葉は寺田、花は守谷の城に咲く、城に餘りて町に咲く。
   ○和田は今山王村に屬す、稻村は稻戸井村の大字となり、寺田は寺原村の大字となる。
 胤長より治胤に至るまでの系圖を相馬系圖には左の通りに次第して在る。
 胤長-胤宗 小次郎-胤儀 左衞門尉-胤高 左近太夫-胤實 彈正左衛門尉-胤德 小次郎下總守-
胤廣 修理亮 -胤貞 小次郎-胤睛 小次郎-整胤 小次郎-治胤 左近太夫
因幡守
相馬胤盈所傳の相馬系圖の記載は聊か之と異りて、それには次のやうにしてある。
胤長-胤宗-資胤-儀胤-胤高-胤實-德胤-胤廣-貞胤-睛胤-整胤-治胤

何づれにしても兩者基く所は同一本たるべく、轉寫等の際に幾分の相違をなしたものであらうと思はれる。又「多賀谷七代記」には、元龜から文祿頃にかけての守谷城主を相馬小次郎胤信とし、筒戸城主を相馬小次郎胤長としてある。これは二つながら前に掲げた系圖には見えぬものであるが、此頃には諱は一生中二度三度更むる例も少なからずあることであれば、其等のことも考慮に入れて見なくてはならない、兎も角も當代常南の豪族下妻の多賀谷氏に對してすらその勢力は降らず、元龜天正の間不絕相戰つて居つたのであつて、それ等の事は「多賀谷七代記」を初め「東國戰鬪記」、「關八州古戰錄」等の上にも隨所に散見して居る。