(寶永二年齊藤左衞門口上覺)
已にして元祿元年、牧野成貞は三たび加增を受けて、七萬三千石を給せられ、八年には家を養子式部成春に讓つて致仕したが、寶永二年十月三十日に、成春亦加增を受け八萬石を以て三河國吉田に轉封を命ぜられた。而して之に替つて吉田の城主久世大和守重之が、關宿城主となつて移り來つたので當然の結果として守谷は此時を以て久世家の頷下に歸した。齊藤德右衛門重定の子源藏が、相馬郡久世頷支配大庄屋役を仰付けられたのはその直後であつた。
享保三年には、久世重之は老中累勤の功を以て關宿領主のまゝ一萬石を加增された。今享保十二年の御用留に據つて之を觀るに、相馬郡筑波郡兩郡に於ける久世領は二十九ケ村であつて、その内相馬郡にありては、守谷町、辰新田、奥山新田、小山村、乙子村、米の井村、戸頭村、寺田村、臺宿村、吉田村、井野村、稻村、高野村、野々井村、鈴塚村の一町十四ケ村が之に屬し、これが守谷町大庄屋齊藤德左衛門支配といふことになつて居る。この頃の守谷町の總石高は、壹千八百一石一升五合であつて、その戸數人數は左の通りに記るされてある。
守谷町家敷二百四十七軒
大庄屋 名主組頭 八軒
神主 一軒
高持百姓 百七十二軒
水呑 四十九軒
借家 十七軒
惣人數 千百二十二人
男 六百三人 女 四百八十八人
出家 十二人 行人 一人 道心 二人
神主 一人 山伏 三人 守 二人
比丘尼 一人 夷 四人 鐘打 五人
(享保十一年宗門別幷家數留帳)
次いで、之れから十三年を經過した元文四年の「宗門人別帳」には、次のやうにあつて、家敷に於て十軒、人數に於て三十二人を減じて居る。
家敷 二百三十七軒
人數 千九十人
男 五百八十人 女四百六十九人
出家 十九人 神主 一人 行人 一人
道心 一人 座頭 一人 山伏 六人
守 四人 夷 四人 鐘打 四人
此間、享保十二年には、時の將軍吉宗の二男宗武が新たに田安家を創立することゝなりて、それに關聯して關宿領の内にも幾分の變化を見るやうになつた。即ち久世領の内、奥山新田、小山村、米の井村、戸頭村(後吉田源之助代官支配)寺田村、稻村、高野村、野々村、鈴塚村等が附近の赤法華村、同地村、板戸井村、大木村、立澤村、大柏村、大山村等と共に何回かに亘つて田安領に編入され、之に替へて、新に相馬郡に於て、市ノ代村、貝塚村、鷲の谷村、筑波郡に於て小張村の上組下組及太田村の諸村が久世領に加へられた。即ち寬延元年の「御用留」に記載さるゝ守谷町大庄屋齊藤德左衛門支配關宿領として擧げられてあるのは次の諸村落である。
守谷町、市の代村、辰新田、貝塚村、臺宿村、吉田村、井野村、小張村(上組下組)、太田村、鷲の谷村、
即ち之を享保二十年の記載に較ぶれば、奥山村、乙子村、小山村、米の井村、戸頭村、寺田村、稻村、高野村、野々井村、鈴塚村の十ケ村を逸し、延享二年に較ぶれば奥山新田、米の井村、野々井村、稻村、小山村、鈴塚村、乙子村、高野村の八村が失はれ。而して市の代村、貝塚村、鷲の谷村、小張村(上組下組)及太田村が新たに加つて居るのを見る。この寬延三年の十一月には、時の領主久世出雲守廣明は領内田作柄巡見とあつて、幾多の家臣を隨ひ、守谷に來つて齊藤宅に一泊した
明和六年九月には、領主久世出雲守廣明は、奏者番寺社奉行から大阪城代に進み、任に大阪に赴いた。是に於てか任地大阪附近に幾分の所領を有たずしては不便多しとして、數ケ村の所領替を幕府に願ひ出てその許可を得た、十一月のことである。斯うした事に關聯して、守谷町外四ケ村の相馬郡領は處理不便といふことから、分家として旗下の列にある久世斧三郎廣德が知行所に振替へられることになり、公儀手續も取られて、左記相馬郡三千石が此時からは更めて旗下久世斧三郎知行所となつたものである。この久世家は、享保五年久世重之の時に、次子民部廣壽に墾田五千石を分ち分家として立つたのに基く。
相馬郡三千石
守谷町(千八百一石五斗一升) 市の代村(貳拾石二斗二升一合)
臺宿村(四百丗石二斗四升一合)井野村(五百五十六石九斗九升三合)
鷲の谷村(百八十七石二升八合)
久世斧三郎屋敷は江戸小日向にあつたので、この久世家を呼ぶに小日向御屋敷を以てしたものである。守谷には藏屋舖の迹に更めて陣屋を置いて、物成徴集一切を處理する所となし、當時の齊藤家の當主源藏吉高(後喜内吉高)を擧げ、家柄の故を以て關宿領當時同前に割元を命じた。何づれにしても大名よりは萬事が手軽輕であつたので、源藏吉高なども割元の身ながら屢々小日向屋敷に伺侯してはその度每に君侯に謁見することも異とせず、又安永九年には四月といふ嫡子廣樂が來つて初め陣屋を宿所としたが、三日にして齊藤宅に移り滯留前後八日の長きに亘つたことなどもある。かくて領主と領民との間は著るしく親密なる關係にはなつたが、それだけに隣接村落の立澤村や高野村など德川家一門の田安領などに對しては何事も押され氣味になることも免れず、立澤村との接觸地點にある入會地(いりあいち)の紛擾なと一層不利の立場に陷ることを免れなかつた。その上に名分の上に於ても損する所多く、又屋敷の經濟も甚だ窮迫狀態にあつたので、夏成秋成(なつなりあきなり)の年貢米(ねんぐまい)引當ての前借申込やら、御用金の强請、種代(たね)の要求など、何等かの名義を以てしての誅求は、年々に嵩むばかりの状態となつたので、町民も困厄しては關宿領復歸を望むの念願漸く强く、安永九年八月には惣百姓大擧して町を出て、嘆願の名の下に關宿城下に迫らんとしたるを、割元喜内吉高が途上に制止したことなどもあつた。書類を以てしての復舊願は割元も署名する村役人も名を列ねて屢々繰返された。折から、天明元年の九月に、是より先き大阪城代から更に京都所司代になつて京地に滯在してあつた久世大和守廣明が、老中となつて江戸に歸來することになつたので、この請願は有利に展開し、同五年には不幸廣明は卒去したが、村民の懇願は廳許せられて、公儀の諒解を經、天明七年十二月遂に關宿領の舊に復した。而してその翌八年正月には次のやうな布達が傳へられた。
北相馬郡五ケ村、前々通御本家久世大和守樣御領分に相成申候
その此に至るまで、前後十九年間は、蓋し守谷の町民には甚だ難義な年月であつたといふべきである。此時本家領に復すると共に、更めて貝塚、市の代、辰新田の三ケ村が加へられて
相馬郡三千三十八石五斗、守谷町、鷲の谷村、吉田村、台宿村、井野村、貝塚村、市の代村、辰新田村
といふことになつた。
守谷町の石高は、寬文以前は千六百七拾石三斗七升三合であつたのを、寬文十一年酒井河内守の檢地から、千八百石七斗三合と上げられて後年の規準となり、その後、新田の開發や荒地の開墾等で當然耕地面積の增加はあつたが、表高(おもてたか)は依然として寬文十一年通り千八百石七斗三合を踏襲して後年に及んだものである。年々の取箇(とりか)は大庄屋に於てその所轄村落の分と共に之をまとめ關宿に送つた。出來秋に際して藩から檢見役人の出張のあつたことも當時の慣例として當然であつた。寬延三年十一月には藩侯自ら作柄一見とあつて守谷に來り齊藤宅に一泊されたこともある。
作地保護の必要上、害獸害鳥の驅除用として、猪鹿追拂の名義の下に、年々願書を新たにし、大庄屋の奥印を以ての鐵砲一村一挺の賃下げは、元祿、享保の頃より行はれ來つた所で、幕末にまで及んだ。是等の事から觀ても、當時この地方の相當開拓が行はれたといひながらも、尙ほ隨處に未墾の山林荒地も多く、猪や鹿の棲息して居つたことは、蓋し推想に難しとしない。現に寬政の頃まで、猪鹿の棲息してあつたことは、守谷町、鈴塚村、立澤村、板戸井村及び大山村等の聯合を以て年々二月より四月まで、猪鹿防人を備ひ入れるを例としたこと幷に猪鹿を射殺した記錄の傳はるに見ても知られる。猪の陷穽の如きも明治初年までは守谷附近山林内隨處にその痕跡を殘して居つたものである。
寬政元年四月附守谷町立澤村役人署名村々への廻狀には
先達て及御相談候て相雇候猪鹿防人の内次郎は當月十六日までにて相休度旨申候間十六日晝時分立澤向山にて打候猪までにて相止申候
の字句あり、此歲打留めた猪は七疋、鹿は二疋、打留金は猪一疋につき一分、鹿は二朱と計算されてある。今にして之を見れば今昔の感の切なるを覺えない譯にはゆかない。
守谷町は元來脇往還であつて、寶歷頃までは笠間の牧野侯や下妻の井上侯などの、參勤交替の通行道筋となつては居つたが、それも何時からか廢たれ、嘉永四年の書上には、守谷通行として左記のものが擧げられてあるに過ぎない。
谷田部細川侯參勤交替
奥州棚倉堀田侯家中
下妻井上侯家中
下館石川侯家中
眞壁牧野侯家中
結城水野侯家中
筑波山護持院
飯沼弘經寺
黑子千妙寺
然るに、三里の東に在る取手宿は、水戸街道の要衝に當り、水戸土浦の兩侯を初め、侯伯の往來頻繁にして、人馬の供給も多かることゝて、寬延二年よりは、守谷町に對しても取手宿定助郷(ぢようすけがう)たるべきことを命ぜられるに至つた。さはれその頃は年分人足五六人馬五六疋に過ぎなかつたので、負擔といふ負擔にもならぬまゝに格別の苦情もなかつたが、歲を經ぬと共に漸次課役の劇增を見るに至つたので、安永四年には遂に村役人連署を以て、
取手宿へは守谷町外附隣二十二ケ村助役(すけやく)相勤め居るも、他二十三ケ村は往來役なきも守谷は脇往還に當り人馬繼立多くその上取手まで助郷相勤むることは難義至極
として加助郷御免の願を道中奉行まで提出して、幸にその容るゝ所となり、翌五年九月に助役勤高の内半高だけ七ケ年の休役を仰付けられることゝなつた。然るにその期の充つるに及び、天明三年再び之を願ひ出たが、その時には替り勤めの村々より不服の申出ありて好結果を得ず、續いては天明八年、寬政三年及弘化四年等數次御免願の提出をなしたが或は許され或は郤けられた。而して村方難義爲めに轉退のものさへ續出する有樣といふことは何時も御免願にある當套の文言であつた。かくて嘉永四年には更めて十年間守谷町高の内千八十一石休役、殘高七百二十石五斗八合だけ勤高と定められ以て幕末に及んだ。要するに加助郷(かすけごう)の制は何づれを問はず之れが課役を受くる村々は容易ならざる苦難に陷つたもので、守谷も蓋しその例に洩れなかつたのである。
封建時代、隣接村落との爭議は、その領主を異にする地方に於て何處に於ても少いものではなかつた。然るに守谷の如き、高野、大柏、立澤、筒戸、赤法華、同地、市ノ代、奥山、戸頭と隣接する所、關宿領一村もなく或は田安領、或は旗本知行所とその領主を異にするを以て、隣村交渉は寧ろやりにくひものが多かつたのであるが、爭議は割合に少なかつた。古くは寬文年中高野村との間に入會爭議があつたが、中世以後に於ては立澤村との間に溜原入會地を狹んでの紛爭が續き、末季には古城沼の開發に端を發して赤法華村との鬪爭をかもしたことなどが知られる。就中立澤村との紛議は係爭百年の永きに及んだもので、潔く解決して禍根を斷つたのは慶應四年にある。
立澤村との紛爭の因を爲せる溜の原といふは、今も地名に殘つて居る沮如の地であるが、數百年の歳月の流れから濕潤の地のおのづから埋れて芽が生じ草が茂り、廣漠たる原野を成すに至つたもので、當然兩町村間の劃然たる境界線は得られなかつたのである。守谷町の主張では、その殆んど全部が守谷町の有で、立澤村は唯その幾分に草を刈る鎌を入れるだけの權利を有つものとし、草先入會の名まで附せられてあつたの對し、立澤村には又その主張もあり、その爲めに訴訟沙汰にも及んだが、立澤は御三卿の一たる田安家の領土なるだけに、兎角守谷の方は不利に陷る傾向もあり、町を擧げて憤慨もし浩嘆もし、兩町村民間の不和も續いた。然るに會々守谷の大庄屋たる齊藤家と立澤の里正たる御目付の海老原家と婚緣干係が結ばれ、兩町村の首腦者の間が融和したので、入食地解決を婉曲に進むる便宜を得、慶應四年遂に兩町村の間に和約成りて各々その所有地を明かにした。
かくて守谷町の有に歸した溜原の土地は之を町民全体に、一戸當り二反四畝つゝ平等に分配して山林となし、永世賣買禁止の誓約をなさしめたものである。當時に於ては破天荒の美擧と推稱すべきである。蓋し或る部落を擧げての移住の際など、その移住者に平等に地を分割して屋敷幷に耕地を與ふることは古く例なしとせず、明歷の大火後、江戸吉祥寺門前の百姓三十六戸を現吉祥寺に移住せしめた時の如きも、屋敷は間口二十間、奥行八間、之に上畑五反中畑八反下畑三反といふやうに平等に分與して、平等村の名稱をさへたゝへられたのであつたが、それでも名主は特に間口三十八間の屋敷、田畑も、それに準じて並百姓よりは相當多量に得たものであつた。然るに此時の溜原の分配は、大庄屋も、名主も組頭も、又小前百姓も一切平均に扱はれて、その間何等の差別をも付せなかつたことは、今日の思想から觀れば當然のことであつて、何等推稱に値すべきではないが、封建の世に於て階級觀念が濃厚に浸潤し、階級によつて差等することが普通であるとして、その間何等の疑義を挟まなかつた當時に於て、敢へて此擧に出たことは當時のその衝に當つたものゝ美はしき處置として特記せなくてはならない。
赤法華村との紛議は、古城沼に關聯してのことであつて、元來古城沼の所在は、其の位置の干係上、守谷同地赤法華三村の入會であつて、この爲めに、古來沼に產する蓮根や鯉魚の取得から來る小紛爭の絶え間のなかつたものであつたが、嘉永二年に、赤法華村が恣に三反二畝の開發を行つたことは、俄然兩町村間の大紛爭を招致し、一時は刀槍を以て兩者相對するに至つた。これも幾ほどにもあらず内齊示談に落着したのは兩者の幸福とすべきであつた。
「殿中日記」「久世家譜」「御實記」「藩翰譜」「守谷町御用留」「覺書」「御地頭樣御代々書」「取手町助卿一件書類」「守谷町立澤村入會地一件書類」「守谷町同地赤法華入會地記錄」「古城沼一件書類」等