江戸時代二百五十年の泰平は、四民をして謂ゆる擊壞鼓腹の平和生活に、その日常生活を樂しく過さしめた。特に大きな城下町といふでもない小都會や農村などにあつては、主要食糧である米麥雜穀のその歲々の豐凶を顧慮する以外には、何ものゝ屈托もなく月を送り歲を迎へたのであつた。さればこそ正月の屠蘇雜煮餅に始まつて、三月の雛祭、五月端午の節句、七月のウラ盆會から、歲の暮の煤拂餅つき、歲暮贈答に至る年中行事が、一年間の最も重要なものとして、年々歲々、枝葉末端に亘る微細のことまで、恒例に隨ひ、家格に應じ、最も嚴肅に繰返して苟も違ふことあるを恐れたほどであつた。冠婚葬祭の、更に大業に今日の觀を以てすれば、煩はしさに耐へぬまで形式的に、將た贅奢を盡くして行はれたのも、人生の大事これ以外にあらざりしが故でもある。
しかく、すべてが平穩なその日々々であつた。餘裕ありといふほどにあらぬとしても、唯のんびりとした氣樂な生活であつた。人は皆その分に安んじて現當以上を望まず、無事なその日々々を樂んで異變なく過ごすことを幸とした。守谷の地も當然さうした空氣の以外に在るべき筈はない。天下の府、將軍の膝元、三百諸侯朝集の繁榮を極めた大江戸とは、行程僅に十里を隔てたに過ぎない處に位置しながら、住民の多數、特に婦女子の殆んど全部は、一度もその江戸を見ずして生涯を終つたものであつた。況して江戸を越えて更に遠隔の地に踏み出すなどいふは思ひも及ばぬことであつた。唯伊勢參宮だけが、一生一度の大旅行として、それも中流階級以上のものだけが、代々講を結んでは、年々何ほどかの金を積み、それによつて行はるゝのを例としたが、文字通り一生一度の大旅行であるので、出發に際しては、各自親戚相會して首途の盃も擧げらるれば、餞別の贈進もあり、鎭守の祠の參詣、道祖神への祈請、何づれも懇ろに、愈々旅裝甲斐々々しく隊を組んで町境を離るゝ時は、蒔錢までしてその前途の無事を祝つたものであつた。是れ蓋しかうした事は獨り守谷といはず、概して各地を通じての風習であり慣例でもあつたのである。それが江戸時代の樣相であつたのである。
さうした世の中である。生活も單調であれば、他方面との接觸も少ない。隨つて見聞も寡く、知識も淺い、唯かうした間に、文人墨客など、身を俗塵の外に置くものが飄然訪ね到りては、その地の豪族なり寺院なりに草鞋の紐を解いて何日かの客となることのあつたのは、その人々にも都合がよかつたのであるが、地方に於ても、世間の大勢乃至郷里以外の異事珍說を耳にする機會を與へられたもので、何處でも喜び迎へたものであつた。それ等の輩の或るものにありては、啻に五日十日の滯在のみではなく、二月三月、若しくは半年一年の長き滯在を續けて食客生活に入り、附隣の子弟に學を授け文を敎ふるものすら珍らしい事ではなかつた。かくて中央都會の文化は、斯うしたことを機として地方に紹介され播植される結果をも擧ぐるに至つたものであつた。特に守谷の地は、吉く平將門の故蹟と知られ、相馬僞都の迹とも唄はたれ所から、好事の人の來訪も他に比して繁きものがあつた。就中著名の文人の來遊としては、文化十一年には江戸の俳人の落霞庵鳥醉が來る。その翌十二年には江戸歌壇の巨人淸水濱臣が來る、越えて文化十四年の八月には又國學者の高田與淸が來るといふ風に、泰平の餘澤を受けて頻繁なる來遊があつた。鳥醉は大庄屋の齊藤方に宿を求めて數日滯在し、與淸は醫木村文伯が宅に一泊した。特に與淸が文伯宅一泊の際は、西林寺の鶴老上人や齊藤德左衛門等が集まつて、宇治大納言物語の講說を聞きて夜の更くるを忘れたと「相馬日記」に記るされてある。以て田舍ながら斯うした古文學に親しむ氣分の當時の守谷にあつたことを知るの科としよう。
さはれ、是等の學者文人の來遊は、何づれも一二泊の滯在であり、古蹟一覽の來訪であつて、それも寧ろ是地彼地への大きな旅行の際の通過といふ程度であつたともいふべきであるが、玆に當時江戸俳壇の大きなる存在であつた小林一茶の來訪に至つては、來訪も一再ではなかつたが、その上何回となく連俳の雅筵なども催されたことゝて、地方に於ける感銘も深く、俳諧運動の勢を助長したものであつて、地方文化の開發の上に大きな貢獻をなしたものとせなくてはならない。一茶は信州の出生であるが、少より江戸に出て、江戸に人と爲り、俳界に入つては頻りに北總各地を遍歷してその風光に親しみ、詩因を自然の間に求めて深い同情を以て之に對し、端的にその情懷を吐露して、芭蕉以後、蕪村以後、沈滯不振の境にあつた俳壇に、淸新味を與へて、之を復活せしめた特殊の存在である。その一笠輕く、初めて守谷に來つて、西林寺に鶴老の俳名に知られた義鳳上人を訪づれたのは、實に文化七年の六月十四日で、その時には下總に緣故の深い江戸俳人の櫻井蕉雨が同伴であつた。
蚊の聲や將門殿の隱し水
朝涼やおこりのおつる山の松
下涼や松がたゝるぞ/\ぞよ
は即ちこの時の句である、一茶が眼に映した守谷の第一樣相とする。此時には一茶は僅に二泊にして去つたが、更にその歲の十二月、歲の瀨も迫つた二十三日といふに、肌も凍らん西北の風にあほられながら、一茶は再び守谷に來り西林寺に訪づれた。その時に詠まれたのが次の句である。
行く歲や空も名残を守谷まで
之を一茶二度目の守谷來訪とする。一茶は着到早々、その二十三日に、鶴老、天外と共に蓮俳の會を西林寺の客殿に催した。その時の句は、一茶鶴老各十三句、天外十句であつた。而して、その連俳の前頭には一茶自ら筆を執りしなのゝ國乞食首領一茶と署名して相當長文の發會の序を書いて居るが、その内に「籠り山の聖人、早かしこく此俳窟をいとなみ、日夜そこにこぞりて、おの/\練出せる句々の決斷所とす」といふ言葉がある。この籠り山は西林寺の山號で、籠り山の聖人は即ち鶴老のことである。是から見て、先づ守谷俳壇の成立を知るべきであらう。續いて同じ顏で年内に三回の連俳の催があり、明けて文化八年の春は、又元日から之を開いて七日會に至るまで、これも連續三回の開筵、員外としては、三人者の外に、春の會には竹里、東陽などの名も見えて居る、有名な
我が春も上々吉ぞ梅の花
の句も、此春の作である。その外、連俳の座の句以外には「相馬京舊懷」として
梅咲くや平親王の御月夜
などの句も殘し、滯在二十餘日、巨大の足跡を印して、正月十三日に流山に向つて守谷を去つた。一茶が生涯に於てもこの守谷訪問は一つの大きな事歷とせなければなるまい。
その後、三月にも復來訪されたが、この時は僅に二泊にして布川に去り、句も殘さなかつた。その翌文化九年には、正月二十三日に布川から來着、二月十二日まで滯在二十日に及び、
正月も二十日過ぎなりはおり客
長の日を喰ふやくはずや池の龜
松苗や一つ植えては孫の顔
などの句を詠んで居る。池の龜は西林寺境内妙見菩薩前の池に多く居つた龜を詠んだものであらう。松苗植えも此頃の守谷風景の一とする、十二日に西林寺を辭し、流山に向つて去つたが、その時に又愛宕宿にて、性來痴愚に生れた哀れな少女を見て「汝父やあらん 母やあらん」と深い同情を寄せて居る、是れも、多情多恨の一茶の一面を觀るものとしよう。
かくて一茶は、その歲の十一月に、過去二十六年の放浪生活に一と先づ別れを告げて故國信濃に歸住したので、この以後暫くの間守谷への來遊もなかつたが、滿二年を經ての文化十一年八月に、再び出府するや、その十八日といふに早くも西林寺を叩いてその客となつて居る。此時の滯在は十日に及んだ。やがてその暮の十一月に復信州に歸つて越年、翌十二年八月に出府したが、その折は鶴老も出府中であつたので、谷中本行寺にて會談したことが記るされてある。守谷に來たのは十月七日になつてのことで、此時には二泊して居る。その年の暮には復信州に歸り、略一ケ年を故郷に過ごして、十三年十月に出府したが、此時もその月の九日に守谷に來て五泊を重ね、十二月二十一日に復西林寺に來て翌十四年の正月二十三日まで滯在した。年の暮には、若雨から金卅疋、野英から同二十疋、金塘から一片といふ歲暮を贈られて居る。若雨は大庄屋齊藤德左衛門爲明の俳號で、是歲まだ二十六歲の若さであつたが、夙に文藝雅技の嗜み深く、漢籍や射術体術和歌の道にも親しんで古典も窺ひ、兼ねて大橋流の書道や遠州流の挿花にも出入し、當時の謂ゆる傳授等を受けた境地に在つた。一茶の來遊に際しは、喜んで之をその家にも迎へ、その指導の下に若雨の俳號を以て作句にも勉めたものである。歲の瀨に臨んで歲暮贈品のある所以である。野英、金塘、亦共に守谷の俳人であるがその人は不明である。
續いて、一茶はその歲の二月にもまた來遊、五日より九日まで四日間滯在の後に去つたが、此行を最後として、信州に歸り文政十年六十五歲で終るまで再び出府のことがなかつたので、隨つて一茶と守谷との關係も之を限りとしてその後を斷つて居る。それにしても、當代俳壇の巨人の、文化七年巳來十四年に至るまで、前後八年に亘る長い間の頻繁なる出入と、その度每に又相當長き滯留とが、守谷及附近に及ぼした影響はかなりに大きなものがあつたとせなければならない。更に之に加へて鶴老ほどの老匠の守谷に定住したのであるから、守谷俳壇の隆盛が一時に極まつた觀のあるのも當然とすべきであらう。齊藤若雨は當時まだ歲も若かつたが、元來文雅の趣味もあり、その上に大庄屋といふ地位にもあつた所から鶴老以外の第一指導者となつたことはいふまでもなく、やがて、一カドの俳人ともなつた。その俳句は、當時江戸にて刊行された「比止理多智」「吹寄」「霰供養」「四海句双紙」及一茶送別の「一韓人」などの句集の内にも登載されてある。その他、守谷俳壇の同志としては野英、金塘、司耕、寸夙、千萩、季道、尼椿、太山、三厚、九皐などの名が見られるが、それが如何なる人であるか、本名も明かではない。さはれ是等の人々が交る々々概ね每月一回、或は數回、鶴老住寺の西林寺の化六庵や、又は齊藤邸の椿亭などを會場として、俳諧の連歌の會を催したり、句を鬪はせたりしてあつたことは特記せなければなるまい。それ等の詠草も何分は今に傳はつて居る。
斯うした守谷俳壇の活動は、この後、文政の中年頃までは續いて居つたが、それが一茶の守谷來遊の遠ざかるに隨つて、その影響も漸を追ふて薄らいて行つたのは據ない事ともすべく、その上に文政八年には鶴老も老衰の故を以て西林寺の現在を退いて隱居寺なる野々井の長福寺に去つたので一層落莫の感を深うせしめたのであつた。會々此頃太田蜀山人などいふ天才の出現から江戸を中心に狂歌の隆昌一時に高まり、燎原の火のやうな勢を以て附隣各地方を席捲するものがあつた。若雨なども是まで俳句に親しみ來つたとはいふものゝ、元來「源氏物語」や「古今集」の硏究にも勉め和歌に興味を有つことの深かつたものであつたので、おのづから玆にこの勢に驅られて、俳句に遠ざかつて狂歌に奔るやうになつたのであつた。狂歌の名は一盃亭數盛であつた。師承は確かでないが、綠樹園や檜園梅明の撰に成る狂歌集の印刷物に多く詠草が載つて居る所から觀れば、それ等の系統に屬するものであらう。數盛の外には守谷住の狂歌師として松人の名が見ゆるが、是れも何人であるか未だ考を得ない。兎に角、是等の人々の詠じた狂歌の登載されてある狂歌集としては「俳諧歌夢風流集」「檜恒三玉集」「狂歌三光集」「狂歌和漢名數抄」「春興集五十題」などがある。愛宕の大店(おほだな)に知られた渡邊氏の當主渡邊忠兵衛敏矩は、この數盛の爲昭及その子の爲親とも交誼が厚く、和歌の造詣も深くして多數の詠草も殘して居るが、是れは本歌に専念するのみで狂歌には入らなかつた。本歌の方では敏矩の外に、少しく時代が降つて西林寺第六十六世の住職の寬山和尙もある。これも相當の歌人で、幾多の詠草を後世に殘して居る。
斯うした泰平の謳歌樂天文化の詠嘆ともいふべき氣分は文化文政を極点として天保頃にまで及んだが、その内、德川幕府も末になつては、四海唯波騷がしく人心匇忙として地方文運の推進なども、おのづから一時の如き狀態を持續することは出來ないやうになつた。それでも齊藤の家には伊勢の俳人の某-といふが諸國漫遊の途次立寄つたまゝに一年有餘の滯在を續けて身を終るに及んだものがあつたり、四條派の画人溪雪とか御家流書道の奥を極めた某といふものなども來つて俺留しては附近の子弟まで集めて書道を敎授するものがあるとか、又江戸三河島生れの庭師の二十餘歲にして來つて八十歲まで食客生活を續けたものがあつたとか、昔ながらの醉生夢死の境涯をそのまゝに現實にせる一面もあつて、大都府に見るやうな血腥き風景とは甚だ遠ざかるものがあつた。
幕末から明治維新にかけて守谷在住のものとしては西林寺第六十七世に應謙上人があり、王義之流の書道の要諦を得、天朗の雅號の下に名筆を揮つた。之に對して、長龍寺の寬庭和尙は鷺月と號し、大沼枕山や向山黄邨、小野湖山鱸芦洲などの當代漢詩界の名流と伍し、雅懷を五言七言の上に托して名を馳せてあつた。枕山や黄邨も時に來つては、この山寺に遊び塵界を離脫した風韻を樂んだといはれる。同寺玄關樓上の一室は即ち和尙の書齊であつて、當代名流の詩稿をそのまゝ交ぜ張りした天井は、即ちその折の名殘を今に留めたものとする。又儒學の雄としては備中松山藩の碩學山田方谷の門に出て、選ばれて川田甕江や三島中洲と共に江戸に上り、昌平黌に學んだ森岡東簾、名は榮三郞が、邊田村中山家の寄寓より移つて守谷に來り、齊藤家の疵護の下に有餘塾を開き、經書の講義や漢詩の初步を導いたものであつた。亦特筆すべきものとしよう。齊藤斐、柳橋積次郞、中山維七郞、田中愛助、原田保藏など即ち當時の塾生とする。
守谷を外にしては、水海道に秋葉桂園あり、佐藤一齊門下の逸足として世に聞えた。同地には尙曾つては蘭學者の山田三川も遊べば、後には漢學では信夫恕軒、菊池三溪など前後して來り、短きは數月、長きは數年幄を垂れて子弟の敎授にも當つた。画家では椿山の來遊もあつたが、福田半香は飯沼弘經寺梅痴上人の招きによりて同寺に客となつたこともある。岩井町に程近き邊田村の豪士中山家には、當代の大儒河田迪齊も、その靑年時代に三年の長きを客として送り、後には川田剛や信夫恕軒も來つて寄寓した。それと共に特筆すべきことゝしては、前に蘭學者の猪股瑞英の來遊あり、後に蘭通事蓮池新十郞兄弟の滯留のあつたことで、殊に後者は蘭學講座を開き西洋事情をも講じたもので、この邊土に當時に於て新文化を鼓吹したものとして異彩を放つたものであつた。水海道の五木田敬造、岩井の間中節齊など、地方僻陬に早くも蘭醫の現はれたなと彼是互に相關聯せるものでなければならぬ。而して邊田村岩井村は、守谷と共に同じく關宿領であつたが上に、守谷の齊藤家と邊田村の中山家とは親戚關係にあつたので、この時代に先んじた新文明の一部はおのづから守谷にも傳はる所あり、輸出貿易品としての製茶は中山蘭華が新たに着眼したる所から、守谷地方にも茶樹の栽培を奬勵したが、その餘影は今に隨所に殘されてある。中山蘭華は幕末攘夷の聲の渦卷く眞最中に敢然開國貿易說を唱へ、卒先して猿島茶の製造に當り、又貿易の先鞭を着けたものとして知られる。
敢へて殷賑といふではないが、それでも地理的には附近の純農村に圍まれて、地方の小中心を成して居つたので七分農家に三分商店といふ形で相當の繁榮を保つて居つたのが幕末當時の守谷のすがたであつた。古い城下町の餘影を今に留めて、地方希に觀る廣い町幅を持つた街路には、中央を縱貫して溝が穿たれ、共同井戸などもその中央所々に在つた。他に異つた風景とする。江州商人の土着して大を成せるものには、鍋屋があり、釜屋があつた。今の田中氏の屋敷はその鍋屋の迹であり、平尾一家は釜屋の後である。赤法華道や奥山道になべ山などの稱のある所の殘れるはその鍋屋所有の山林のあつた迹とする。その外には蔦屋、江戸屋などいふそれ/゛\の大商人もあつた。幕末に梅屋、松屋などいふ妓樓の出來たのも一時の花と見よう。それ等は上町の西側にあつた。
町の中央部に商家の間に伍して、古くは觀音院、妙覺院などの寺院があつたが、それは己に延享頃から無住と記せられ、幕末の頃には亡びてなくなつた。そうした佛堂で今に存して居るものは下町の樂師堂位であらう。上町には八幡宮があり、新町には夷宮があり晝坂町には修驗寺の德寳院があつた。
舊家としては、齊藤德左衛門と野口理兵衛とが己に寬文の檢地帳にも載つて居る。爾來德左衛門(代々德左衛門又源藏を通稱とする)が代々遠郡數十ケ村(三十六ケ村の時もあり幕末には十二ケ村になつた)の大庄屋を勤めて後年に及び、野口理兵衛は愛宕の大店に知られた邊忠兵衞と共にこれも累代名主役を勤めたものであつたが、二家共に最近に至つて他に轉退した。續いては下町の相良平兵衛とを古い來歷のある家と數へる。
大庄屋の齊藤家は即ち本著者の家であるが、古くから現在の通り守谷の中心仲町の西側に位置しその當時の居宅は總茅葺平屋造百二十六坪餘、入母屋造の大玄關に表を飾つた大構へのものであつた。實に一家の住宅であつたと共に、守谷一町の役所であり、遠郡十餘ケ村の地方事務所であり、同時に總百姓寄合處でもあり、それと共に又、藩主來町の際の旅館となつたのは勿論、笠間、下妻谷田部等の藩侯、飯沼弘經寺の上人などの江戸往復の際には本陣ともなつたのであるから大規模に築造されたのも當然とする。表座敷の方は大玄關から續いて十二疊の大室が四間も列り之に渡り廊を以て四坪建の湯殿及便所が建てられてあつた。組頭村役人の集合場處としては十二坪の板間もあつた。臺所の土間も廣かつたもので約四十坪。馬に乘つたまゝ大戸口から自由に出入出來たといふ明治十年に舊時代の遺物といふことで之を毀つて現在の家に建て替へた。
以上、地方の小中心としての幕末に於ける守谷の概況とする。