明治元年、德川氏政權を返上して皇政肇國の古に還り、幕府は仆れて一切の政治は朝廷より出づることになつた。關宿藩に於ても明治二年六月藩制改革を行ひ、舊藩主久世謙吉は更めて知藩事となつた。續いて明治四年十一月に廢藩置縣が斷行せられて、結城、猿島、岡田、豐田、葛飾及相馬の下總六郡を管する印旛縣が置かれたので、守谷町も當然之に屬することゝなつた。同六年印旛縣は千葉縣と改められたので、之に伴つて守谷町は又千葉縣の管下に入つた。同年學區制が布かれるに及び、第十四大區六小區となり、此時に下高井大木等を連合學區として西林寺を假校舍に守谷に初めて小學校が置かれた。舊陣屋跡に校舍を新築して之に移つたのはその翌年に屬する。同八年四月更に管區編成變更によつて、千葉縣管區内の前記六郡は新治縣を構成して居つた常陸の筑波、河内、信太、行方、鹿島の六郡と共に茨城縣に屬することになつたので、守谷町も茲に茨城縣管下に入るに至つた。同十一年、相馬郡の内利根川の流を境界として、千葉縣に屬する分は南相馬郡となり、茨城縣に屬する分は北相馬郡となつたので、守谷は北相馬郡の内になつた。辰新田及奥山新田の守谷町に編入されたのも此頃のことに屬する。
明治二十二年には市町村自治制が新たに實施され、守谷町は新に此時を以て附隣の赤法華村及小山村を併合した。町役場は守谷町仲町に置かれた、即ち現狀である。守谷郵便局の置かれたのは是より先、明治十一年であり、龍ケ崎區裁判所出張所、常陽銀行守谷出張所などの置かれたのは又この以後に屬する。
明治二十二年自治制實施以來守谷町長に擧げられたのは次の人々である。
平尾讓吉 原田時次郞 荒川增郞 野澤章夫
藤平淸次 上床重幸 長谷川龜之祐 古谷茂三郞
平尾榮作 古谷茂三郞 田中偉三郞 吉田龜次郞
奈幡健三