籠り山に在り、天台の名刹で、一時黑子千妙寺配下になつたこともあるが、江戸中世以來、東叡山寬永寺直末となり本寺格を以て現在に及んで居る。緣には、延喜二年、叡山の名僧延昌慈念東國巡錫の折の創立としてある。初め守谷の元地なる本宿に在つたのを中古現地に移り西林寺を寺號としたといふ。淸淨光院の黑印は明治末年まで使つて居つた。寺域は天保の書上には三萬坪としてあるが、現在でも東西百六十間、南北二百二十間を保つて居る。今の建物も明治の再構で、瓦葺の本堂に書院庫裏を列ね相當の体面を備へて居るが、明治二十三年燒失前の十五間四面といふ大本堂に壯麗な大天蓋や護摩壇のあつた堂々たるものには比すべくもない。
天正十九年十一月、早くも德川家康より、二十石の寺領及一山不入の朱印を給せられ、爾後明治維新に至るまで、紫代將軍代替り每に更めて之を附與されてあつた。祈願寺としては近郷二十八ケ村四百餘戸を檀越とし、門末は往古四十ハケ寺を數へたが、延享四年の御用留には、末寺十一ケ寺門徒二十一ケ所としてある。その門末中、朱印地を附せられたものだけでも左の七寺がある。
龍澤寺 立澤村 寺領五石四斗
醫王寺 野木崎村 藥師堂領四石五斗
高福寺 高野村 寺領拾石四斗
永藏寺 戸頭村 寺領五石
龍禪寺 米々井村 寺領五石
光明寺 矢作村 阿彌陀堂領參石
西福寺 守谷 八幡領五石
公儀年頭登城は五年目といふ資格であつた。要するに寺格は高かつたが祈願寺であつた爲めに、維新後の打擊は甚だしく、一時は轉退に瀕したのであつたが、それが恢復の曙光の見えた明治二十三年に一切を擧げて烏有に歸したのは惜むべきであつた。
歷代住僧中には第五十五世の豪歡が天台の名僧として箸聞して居る外に、第六十四世の義鳳が俳名鶴老の名を以て一茶の伴侶として知られ、一茶も屢々來つて滯留しては俳筵を開いて居ること已に記るした通りである。第六十六世の寬山は和歌に知られ、第六十七世の應謙天朗は書道に秀てゝあつた。
每年十月十七日には恒例として顯密五重相傳の行事がある。一夜行と唱へ集え來る善男善女に賑ひ境内には所狹きまでに物賣る露店や見世物小屋まで立列んだものであつた。
寺寶としては狩野尙信画横二間といふ大涅槃像などがあつたが。多くは散佚し又燒亡して今は東照權現鏡御影と傳ふる德川家康像を擧ぐるに過ぎない。束帶正裝の姿を寫せるもので天海僧正の題賛がある。
東照大權現
歸命滿月界 淨妙瑠璃光 法藥救人天
圓通十二願
三國傳灯 山門探題大僧正天海
裏面には享保十二年、天明七年、昭和十年改装修補の次第を記るしてある。昭和十一年七月文部省は之を重要美術品と指定し翌八月の官報を以て公布して居る。
梵鐘は無銘であつたが、橦座を龜型にしてあるのを珍としたものである。元妙見菩薩の鐘であつたが故であらう。昭和十八年太平洋戰爭に應召して今は鐘楼を殘すのみとなつた。