德怡山長龍寺

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 土塔に在る。初め眞言宗であつたのを、中頃曹洞宗に改むと傳へる。境内、天保の書上には凡四萬千坪とある。今も廣汎の地域を占め、巨松老杉の蔚然たる間に中門本堂方丈庫裏が建て列つて居る。 末寺二、 門徒一、
 天正十八年小田原戰役後には淺野長政、木村重茲より一山不入の禁制を附せられ、翌十九年には德川家康より十石の朱印寺領を寄せられて居る。その古文書は今に傳ふ。即ち左の通りである。
        禁制
             下總國北相馬庄内德怡山
                     長龍寺
 一、當手軍勢亂妨狼藉之事
 一、放火之事
 一、對寺中申懸非分儀付麥毛苅取之事
 右條々堅令停止訖違犯之族於在之者可處嚴料者也
  天正十八年五月 日    淺野彈正少弼(花押)
               木村常陸介(花押)
         ○
   寄進 長龍寺
    下總國相馬郡
    相馬内拾石事
   右令寄附之訖寺中可爲不入者也仍如件
    天正十九年辛卯十一月  日 朱印
 江戸時代、公儀年禮登城は七年目といふことである。寺寶古文書の類は元和及文化再度の火災に亡滅したといふ。文化十年九月二十八日の罹災に燒亡した建物は、左記の通り御用留に記るされてある。
客殿 竪九間半
横七間
康裏 竪十五間
横五間半
衆寮 竪六間半
横四間
二間四間
長屋 竪八間
横三間
東司 竪四間半
横二間半

 梵鐘は寬文十一年の鑄造であつたが、昭和十八年太平洋戰爭の際に供出した。
 歷代住僧の中には、寬政頃の居住で慶門和尙が機鋒の銳きに知られて居る。又幕末から明治初年の居住では寬庭和尙が鷺月の號を以て漢詩に署聞して居ることは已に說いた。明治五年に四十八歲で示寂した。