敎應院觀音寺

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 鎌倉の中世相馬胤繼の建立と傳へ、元地詳かならざるも、元和の頃守谷仲町に移り、觀音別當知行坊といつたのを、天和年中更に觀音寺と改めたといふ。歲と共に漸次衰微、中世以後は境内も僅に四畝十步といふ地域で西林寺門徒に屬して居つた。それでも幕末までは大日堂をも管理し、祈禱且方十二軒を有して居つたが、明治維新と共に廢され今は遺影も止めない。