大雄山海禪寺

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 隣村高野村に在る。臨濟の禪刹で妙心寺派に屬する。緣起には、平將門の創建、夢窓國師の中興と記るして居る。東都の名刹淺草海禪寺の本寺で、淺草の同寺は天正年中本寺の鐵岫和尙が開いたものである。小高い丘陵の上に位置し、老樹全域を蔽ひ、禪機の迫るを覺えしめる。相馬氏の守谷在城の折は歸依最も厚く、江戸時代になつても旗下の相馬氏及奥州の相馬氏共に屢々參詣もあつたと傳へられ、特に享保十八年五月十一日には奥州相馬の藩侯が參勤交替の歸途此に過りて一泊した記錄がある。
 境内には相馬家の墓碑が建つて居る。古五輪二基、寶筐印塔四基、外に將門供養塔及元祿享保の寶塔形の碑もある。親王四十代後胤相馬小次郞平信胤など刻せるものも見られる。本堂前に在つた宏大なる供養塔は今撤せられて見られない。
 江戸時代の朱印地は拾壹石五斗、天正十九年家康以來のことである。本尊地藏菩薩は將門が女如藏尼の持佛と傳ふ。
 緣起一卷は寬文四年堀田正俊の撰幷手書であつて次の通りである。正俊は守谷在城の折に最も本寺に歸依の厚かつたものといふ。
        下總國海禪寺緣起
 下總國相馬郡大雄山海禪寺者、朱雀院承平元年平將門所創建也、以地藏爲本尊、傳稱聖武天皇神龜十五年大僧正行基所手作也、寺僧日、將門曾崇妙見菩薩、故得其冥助擊伯父常陸大掾國香克之、遂領關東八州、居相馬郡以立新京、自稱平新皇置百官、逆謀增長暴慢殊甚、是以無神明之守無佛力之助、而至天慶三年正月廿七日、爲平貞盛秀郷被誅戮畢、其氏族存者祭將門於此寺、以爲鎭守、安置妙見菫薩、且祭其委女幷卒七入號七人武者而以稻荷明神日吉七社辨才天女爲守護之鎭、爾來相馬一家世々以此寺爲冥福之所、其後禰僧海運和尙住于此、而始爲濟家之徒、至三徑西堂始請寺領之官印 永以爲通例、天正十二年鐵岫和尙勸請檀那再興事成矣云々、頃歲先考從四品侍從兼加賀守堀田正盛爲佐倉城主時、此寺亦屬領内、聞其古跡以有官印之前例、故慶安二年八月廿四日啓撻其趣、辱賜
 大猷院殿之御朱印、以授寺僧、而爲他後不朽之證、可謂大幸也、想夫將門者古來朝敵之最也、然至今七百餘年之際舊跡猶在祭祀不絕者、猶軍中祭豈尤鄭人立伯有之後之類乎、且本朝亦祭惡神立逆臣祠之例非無之、蓋慰其靈也、然則此寺之存亦不可怪乎、其人之正邪始舍唯其陣跡之不滅者可謂奇也、先考沒後其所領分領而此寺在余采邑之内、寬文四年甲辰余辱賜、官暇休于采邑、寺僧所 語件件呈舊緣起請記其始未以傳將來、余亦感舊跡之久存且不忌先考之有由、聊記其大概以寄贈之
       寬文四年甲辰之秋                從五品備中守堀田正俊
  平將門御影一尺五寸、以前七百歲、余謹奉拜之、依爲不朽之證品可緣起祝、
 將門木像といふのは傳ふる所もないが、最後の二行だけの記文の書体は全然本文と異なり後年の加筆であること明かである。何人かの由なき追記と思はれる。
 その他、古くは記綠文書も多く藏してあつたといふが、これ等は安永四年五月二日といふに火災にかゝり悉く燒盡したといふ。