郷州原

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 守谷町字奥山より高井村上高井に通ずる道路の北側一帶の高丘の稱であつて、舊貝塚沼がその丘脚を浸して居る。今大体山林となつて居るが、この邊一帶彌生式の古代土器の出土極めて多く、その破片は隨所に尙散在して居るのを見る。その地勢から觀ても、又この遺品から觀ても原日本民族の居住遺蹟であることは疑ふの餘地なく、特に當時の祭祀用と推定される小型の壺皿火器等の多く發見されたる所から觀れば、或は祭祀の行はれた遺蹟であらうとも思はれる。今「原日本民族居住遺蹟」の碑を建てゝ居る。
 曾つて文化年間高田與淸の守谷來遊の折には、此地を過ぎり、がうしうを辛島とし將門最後の地であるべしとして之を相馬日記に記るしてあるが、それは當らない。將門最後の地の辛島と史書にあるは幸島の誤寫から來たもので、當然今の猿島のことであるのは明かである。