一、守谷の地の廣く世の文筆の人の筆端に上りしもの

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  守谷の地は平將門の遺跡などあるが爲めに、古來訪ね來るもの多く、文となり詩歌となり世に傳はるもの多し、茲には先づそれ等のものの管見に觸れたるを採りて擧ぐる。
 
「我春集」俳諧寺一茶
    發會序
昔/\淸き泉のむく/\と湧出る別莊をもちたるものありけり。たやすく人の汲みほさんをおそれて、井筒の通りに覆におほひを作て、 倩年(つら/\)をへたりける程に、いつしか垣もくち、水もかろくなりて、茨おどろおのがさま/゛\にしげりあひ蛭孑孑ところ得貌におどりつゝ、つひに人しらぬ野中のむもれ井とぞなれりける。此道こゝろざすも又さの通り、より/\魂のかびを洗ひ、つとめて心の古みを汲みほさゞれば、彼腐き俳諧となりて、果は犬さへも喰らはずなりぬべき。されどおのれが水の嗅きはしらで、世をうらみ人をそしりて、ゆく/\理屈地獄の苦しひ免れざらんとす。さるを嘆きて、籠山の聖人、年かしこく此俳窟をいとなみ、日夜そこにこぞりて、おの/\練出せる句/\の決斷所とす。春の始より入來る人/\相かまへて其場のがれの正月言葉など必のたまふまじきもの也
    文化七年十二月  日             しなのゝ國乞食首領一茶 書
   着到帳第一番                              一茶
     我春も上々吉き梅の花
   去十二月二十三日
     行としや空の靑さに守谷迄                      〃
          寒が人やら松の折れ口                   鶴老
     鶯が赤みそ汁を鳴やらん                       〃
          やりひねくつて遊ぶ陽炎                  茶
     有明は事におぼろと申也                       天外
          玉子賣る迚植る柿の木                   老
     急ぎ候西に見ゆるは善光寺                      茶
          六月寒きけさのむら雨                   外
     時鳥蚤の迹まで奇妙也                        老
          夢の通りに小宮作りて                   茶
     拾ふものあらばと櫛を流すらん                    外
          無分別なる雁の來所                    老
     名月のすこし筋かふ家を建                      茶
          貫之始め蓼にむせつゝ                   外
     かりそめに吹てのけたる螺の貝                    老
          東葛西の春は來にけり                   茶
     花曇り心任せの筏さし                        外
          蝶に別れてもとる猿引                   老
     灯(ともしび)の珍らしくなる夕枕                  茶
          鎧手向るかまくらの方                   外
     松風の吹起したる雪踏んで                      老
          妹が山茶花盛り也けり                   茶
     たが人の泪くむ程なぶるらん                     外
          罠を解(ほとい)てもとす獺(かわうそ)          老
     涼しさや赤い鳥居に月さして                     茶
          遊行の植し合歡しげりつゝ                 外
     小三太ははや十三の小脇差                      老
          美濃の得意(とくい)に任す行灯              茶
     どや/\と閏師走も中過(なかばすき)                外
          梨買に出る空也寺が妻                   老
     風になびく朝茶けぶりと唱へ捨                    茶
          舟の日記の多き 吉日                   老
     みちのくの錢一〆に身を賣て                     茶
          貌つきあはす兄弟の春                   外
     花の且花の夕にとしよらん                      老
          大悲大慈の初かすみ哉                   茶
            一茶十三句 鶴老十三句 天外十句
      ○以下文化八年正月十三日マデー茶守谷滯在中數回ノ連座ノ催アリ、ソレ等ノ句モ傳ハルモ直接守谷ニ干係ノコトアラザレバスベテ省略ス。
 
         九月夜探題
     下總ヘーすじかゝる柳かな                      一茶
         相馬京舊懷
     梅さくや平親王の御月夜                       一茶
 
「七番日記」俳諧寺一茶
 文化七年
  六月十四日
   布施村中食す、守谷西林寺に入、將門舊迹所々に有、
       蚊の聲や將門殿の隱し水                     一茶
  十二月二十三日
         廿三日西林寺に入
       行としや空の名殘を守谷迄
       行としや身はならはしの古草履
 文化八年
  三月二十日
   守谷入
 文化九年
  二月
  正月廿五日 於曇天寺大變 本日安藏と云人打負テ不出金 依之去る三日、守谷の人四十人竹やり作りて安藏家に責入んとする所、雲天寺より露顯して、守谷の者ども長龍寺にたのみ入、西林寺兩寺 佗入 大庄屋をなだめ、今日すむ、
      「松竹鶴龜」の内
      永の日を喰やくはずや池の龜
               (妙見池ノ龜を見てか)
 十二月
 十二日 まれの晴天なれば籠山を出てあたご町といふ所を過るに、いまだ廿にたらぬと見ゆる女の、荒布のやうなものを身にまとひ、古わらぢ馬の沓のたぐひ、いくつともなく腰にゆひつけつゝ、黑髪に箸あるひはきせるなどさして、かくす所もかくさず、あらぬさましてさまよふ者あり、人にとへば、おすか氣違とて、此里のものなるとぞ、何として佛神に見はなされたるや、盛りなる菖蒲の泥をかぶりて、折る人さへもなく思はれて哀也、
 汝父やあらん、母やあらん、
 
「西林寺化六菴記」
 化六菴と申は地藏經に敎化六道といふ文字をとりての事なりとおもひしに、主人の日 さる道理ある心ならん(ずカ)此菴は文化六年といふに住みそめ侍ればかくは名付けたりとなり、すへて年號をもて物に號くる事、延喜式元享釋書などみなその例にて是を戲にとりなしたるけいかいの洒落一等くすべておもしろし。主人鶴老上人聖敎のいとまかけこもりて風月を口とる處なり。かゝれば諸方より風雅をしたひて來りあそふものにその數をしらず、その境いとせまけれども維摩居士の丈室にならひ三萬の俳士の座をまうけつべし、此處にあそふものゝ眞心廣き事をしりぬべし。豈たゝに六のみならんや、變化百舌そのきはまりあるべからず 法の國のなにはのことか法ならぬときく時は、羅漢うちの變幻も聖衆の音樂もみな遊戲三昧のはいかいの風流におもひよそへたり。なほ幾萬人の俳士をも風化し給ふべし。といふ事我病と問はるゝのかへりことにいさゝかそのおもむきを申おくる
       丙子仲春                                   偏枯の病人 少隨齋成美
         (交化十年)
               ○
      將門古城一見の時                                       溝口素丸
  米かみの動きや麥の穗の戰ぎ
             (交化年間)
 
「○ ○」題簽亡失
    相馬覽古 舊記に島島廣山といふは
此處歟

 善に名を殘す者は人是をうらやみ、惡に名をのこすものは人是をにくむ。羨む事は後世に勸め、懀む事は後世に懲らす、善惡ふたつながらともに捨べからず。ことし甲戌(文化十一年)春三月、筑波山詣の頃、總陽相馬郡守谷の郷齊藤氏の宅に淹留す。驛の後に一城のかたちを殘す。是や伊豫掾純友と心をあはせて恐なくも十善の皇統を望み、猿島郡石井の郷に内裏を造營したる相馬の將門が ○人云產所は同郡御出子村母は蛇身ことも由來あり 舊跡とかや 一說に内裏を建たるは此所とも 傳聞に、四方の十二門は陽明待賢郁芳門、美福朱雀皇嘉門、談天藻壁殷冨門、安嘉偉監達智門、紫宸淸冷溫明殿、日花月花の兩門陣座軒廊左右の掖その外七十二の前殿、三十六の後宮、鳳の甍天に翔り虹の梁雲に聳ててためしなき奢侈をなし、道に背き法に戾り、恣に八州を取掠め万民をわづらはしめ、烏合の群を招き樂しめるも邯鄲黄粱の夢にひとしく、承平二年に起つて天慶三年二月に終る。春秋唯九年にして一時の灰燼となれりける。されば此あたりの神社といひ佛閣といひ、みな由來あり 海禪々院は高野山をうつし遺骸を埋め石碑を建つ、やゝ千載に近し、苔厚して文字さへさだかならず。品こそかはれ墮淚のむかしを思ふ。其靈神を國王大明神と崇め親王堂と呼ぶ。當世の人祈る所かなはざるといふ事なし。西林淨刹は守本尊明見八幡を鎭座し祈願の所 何いのるらん心つくしにと此神も嘸思召つらん 延命密寺には七人の將門が像幷に馬の像二つながら土をもて造る丈ケ三尺余 里人呼んで七武者といふ 碎けて後は もとの土くれと三浦の導寸が最期の一首もさる事ぞかし かつ生涯帶したる大刀一振を什物とす。牛頭天王愛宕天女宮の木立をの/\白日を覆び森々と神さひわたる 雲雀啼中の拍子に雉子の聲聞えて長閑なる日旅寓のあるしを案内とし同行龜從を伴ひて步遊す。廓中すべて二十余町先づ大手へ分け入る二重門也。升形のありさま 水なき堀五重あり。目くるめく斗に深く下り高く登る事甚嶮しく 交枝を攀兎徑を蹈み 大堀引橋などいふ處/\其深さ前に同じ それより又から堀を經てやう/\二の丸に至る。爰は楓樹殊さらに多し。芽出しの綠に秋の紅をおもひやれば國々より奪得たる三千の美女纈纐を飾り翠黛を粧ひ 置酒の奥に綾羅の袖を鷭し 笹竹の大宮人の學びして倭歌の難練せし聲も空しく稍々殘る風の音のみ髣髴たり 行/\て明見曲輪是を本丸と定む。三本杉といふは一木三段にわかれて百尺を見あけ大サ指をとつて計り知るべからず 小太郞の祕藏なりし稻妻栗毛の名馬も繫き隱しけるや一層高き所に箕踞してしば/゛\見渡す。眸はるかに運べば霞境を迷はす岸竹かと見る村々は奥山一ノ臺同地赤法華岡の民家也あらまし田に打れ畠につぶされながら殘る處の沼渺茫と春の水を湛へたり 里人の云此水の中に衣を疊んで忍出る道ありと 芦の角河骨の卷葉浪間にたゝよふ。歸る雁は行を亂し農夫の鍬は淵を削り代かく馬は八陣の出所に迷ふ俤に見て今もおそろし。そなたにちいさき船の棹さし唄諷ひありくは蓮の根を堀なるよし。 里人の云將門が妾桔梗といへるか蓮の糸をとり織物とせしにより比沼の蓮根に糸をひかすと 採蓮の姿にはかはりて聲細くと幽に聞きあはれむものゝ媒となれり。一村雲より白羽の矢落て馬すゝまず猶貞盛が共に天をいたゝかさる根の矢にあたり 里人の云此矢の羽鵯なりけるとぞいまに比沼にすむその鳥おりず又相馬一郡の人ぞの羽を用へす 秀卿が謀の太刀に米かみよりも切れける所は佛島とて一門從類の人々を梟木にかけたるも此地也 舊記に辛鳥とあり爰をいふとぞ いにしへより採繕ひまはし人を禁ず 里人の云此内へ入る者一人として出る事なし又相馬一郡にあし毛の馬を飼ず里人の云將門が乘所の馬あしけにして今之を飼へばその主かならず怪我ありと 桔梗生して花咲く事なし 一說に將門が紋也一說に將門はいつも七騎おなし姿に出立て見分けかたければ秀郷謀をもつて桔梗の前に通じて是を問ふに妾が云將門は米かみの動きに勇氣あまりて常に甲の上に湯氣たつと敎へけると將門怒て米の井ケ原に於てききやうを殺す末期に此原に桔梗あれども花吹かじど一句をいひ殘しけるゆへなりと里人が云のみ 南は利根川廣く西北は鬼怒川深く東は小貝川の早瀨を帶て其間行程竪四里餘り横二里半に及ぶ三筋の流さらに人馬の力して涉る事かなはざる要害ハ山海を賴まず無雙の勝地なるべし。まことや博天の下みな王土にして卒土の濱みな王臣なるを知つゝかゝる惡逆を企て忽滅亡せしもひしもひたすら後の人の鑑となす天の敎なるかしらず
落霞主人著

「常總日記」淸水濱臣
 文化十二年四月
 十二日 朝日のさし出るを待てあるじにいとまつけて出たつ、十町ばかり行てちひさき土橋をわたれば細代といふ村にて、こゝより相馬郡なり、新宿筒戸を過て守谷にいたる、三町ばかり左に平新皇の古城のあと有といへばとひ見る。今にから堀のあといちじるしく 三重に堀をまはして出丸本丸ともいふたかき所あり、要害の沼廣くしてなかをば水田にほり たかき所をば畑につくりたり、本丸とおほしきに古井あり、井げたなどはなくてふかさ三丈ばかり 底にいさゝか水見ゆ、天慶のむかし思ひやらるゝ事おほし、しばしやすらひて見めくりつゝおもひつゝけるうた
   いくとせをふる井の底のたまり水千世に濁れる名を埋れぬ
戸頭を過ぎきぬ川のながれ(利根川)いとひろかなるをわたれば布施天女宮いときら/\し 紅龍山東海寺とまうす
 
「相馬日記」高田與淸
 廿四日(文化十四年八月)
 守谷野はいとひろき野にて、目もはるかに見かすむばかりなり。これ相馬の僞都のかまへの内にてものゝふらか射向ひし跡なりといへり。醫師木村文伯この所に出迎へて道しるべす。矢田郞海道を經て行けば守谷の里なり。德怡山長龍寺の門に淺野氏と木村氏とが花押せし古き制札あり。又牛頭天王の社ありて、その御形は鏡にまします。裏に下總國守谷郷牛頭天王守護所大同元年丙戍九月二十一日神主吉信と鑄つけたり。牛頭天王と申すは素盞鳴尊なるよし備後風土記祇園緣起甫良内傳などに見えたれば蘇民將來や巨旦將來が傳へはもと天竺の故事によりて作り出たりと見ゆ。文伯が家にてもの食ひなとしつゝ暫しいこふ。三思のをちはさりがたき事ありとてこゝより野田の里方へあかれ行きぬ。村ぎみの齊藤德左衞門が家を訪ぶらひしに主人喜びて俳諧師鳥醉がこの里に遊びし折記るせしふみなと取り出て見せたり。德左衛門文伯道しるべして相馬の僞都の舊址とめてわけ入るに、先づ相馬小次郞師胤が城跡ありて、今にから濠升形などのさま昔のまゝに殘れり。師胤は千葉介常胤が三郞子にて、その裔相つぎ應仁年中までこゝの城主なりといへり。後元和といふ年の頃土岐氏の君こゝに住まれしが、上野國沼田の城にうつられてより此城遂に廢れぬとぞ。畠の中道を東へ廿町あまりゆけば、大濠曳橋などいふ所あり。平の臺といふはいと高き岡にてこゝぞ將門が住みし所なる。まためくるむばかりの深きほりきを渡りて八幡廓に移る。將門がいつきまつりし妙見八幡と申すかこゝに鎮座せしを、今は籠り山の西林寺にうつし參らせたりといふ。こは將門記や今昔物語に、人ありてくちばしりて曰く、我は八幡大菩薩の御使なり朕が位を蔭子將門に授く 速に音樂を以て迎奉れと託宣ありけるよし見えたれば、その神宮をやがて將門が城中に建てたるなるべし。妙見八幡と申すよしは、妙見菩薩と相殿に祭れるにや。此所よりは千町の田面うちこし奥山一の臺同地赤ぼけ岡村がうしうなといふ所々めちはるかに見渡されたり。齋藤氏語りけらく 古へば相馬の僞都のめぐりはすべて湖たゝへてまたなき要害の地なりしを寬永といふ年の頃鬼怒川の流れを南へ決して數万頃の新田をば開かれしいへり。今も尙田の眞中に池のありて蓮など生けたるが多かり
  鍬形惠齋の筆に成る平台山の繪あり與淸が見取圖によりて描きしもの乎
 今宵は文伯が家に宿る。鶴老師齋藤氏相ぐしておはしたれば、よもすがら宇治大納言物語の講說して人々丑の四なといふ頃に寢ぬ
            ○
          相馬の墟を過ぎててよめる歌
與淸

 かけまくも あやにかしこき 久方の 天津日嗣の御位を 盜まくほりし 鷄が鳴く 吾妻の國に 刺竹の 都なす城を いかめしく 造り構へて 程近き 國の司を 追ひしぞき 討平げて千早振る あらぶる神と 人皆の おびえわなゝき まつろひし ひとごのかみと 大君のまけのまに/\ 官軍を 率ゐあともひ 勇みたる いくさの君が 放つ矢に 頭射させて 玉の緖の 命死にけり 從へるうからやからも 沫雪の 消ぬる如く こと/\に 滅び失せたき その跡を 荒れたる 山に 雨の夜は 鬼火もえいであしきもの すたまいをらひ 諸ろ聲に 狼叫び猿やまこ 狐騷ぐと 里人の 語るを聞けば ぬば玉の 黑髮ふとり 村肝の 心も消えていともかしこし
        短歌
    立つ浪の風に荒れけん辛島の廣江はあせて音も聞えず
            ○
   望ニ將門山一、有レ感二天慶之事一爲体長句一。                             大沼枕山
叡嶽如二虎踞一。巍然鎭二皇居一。有レ人登レ山小二天下一。意氣似レ欲三無二雄都一。吾王一姓億萬載。不レ比暴秦取可レ代。神鼎輕重誰得レ問。老賊謀〓反何狂悖。汝惡雖レ可レ責。汝勇還可レ惜。何求有レ不レ得。只在レ知二順逆一。當時藤氏逞二逆威一一擧殲レ彼非レ汝誰。龍種況是平王孫。立就二相位一亦所レ宜。區區豫掾何足レ恃。大事不レ成可レ知耳。與二其無〓聞寧遺レ臭。吁汝之志蓋在レ此。八州蹂躙任二横行一。奪二人子女一奪二城一。總北新建僞朝廷。王宇金闕高崢嶸。吾王赫怒議二討罰一。吾師如レ貔賊何活。一箭殞レ命二將手。但有三惡名不二埋沒二。遺墟荒涼銷二榛荊一遙望陳迹一空復情 北風北來夜號怒。亦知老賊恨未レ平。
 
    守谷懷古                                              織田鷹洲
相馬郡中尋御厨  到今守屋名稱呼  林丘地古屯倉述  麥朧雲蓮妙見廓  後代城隍先想像往時宮殿本虚無  問名幾度異人出  步史去疑大丈夫
 
    相馬懷古                                              織田鷹洲
霜波滴雨樹凌雲  總代八幡頓像分  桔梗無花頭自默  龍禪有寺耳曾聞  金塗三佛慧  麗
朱染二王筋力旋  曆々千年相馬迹  長留古刹親人文
 
    守谷懷古                                              野村素軒
威壓八洲英氣横  豪華如夢歎汽榮  秋風落日僞宮址  祇聽滿山松籟聲
國色常多末路嗟  離々龝草夕陽斜  可憐楚帳虞姫怨  桔梗於今不發花