はじめに

 守谷市は、利根・鬼怒・小貝の三川に囲まれ、緑につつまれた自然環境と歴史と伝統に恵まれてきました。川は歴史と文化を運び育てます。そのなかでの人々の暮らしぶりを記録した多くの古文書が残され、そして平将門伝説や守谷城址など、豊かな歴史遺産を有しております。
 その歴史の基本は古文書にあります。守谷市の古文書は守谷町名主家の「斎藤家文書」、赤法花村の名主家「染谷家文書」、野木崎村名主家の「椎名家文書」、高野村名主家の「岩田家文書」が著名です。しかし、まだまだ市内や近郊の農家には多くの古文書が眠っていると思われます。これらの調査により当地域の歴史がさらに解明され豊かな歴史遺産になると期待できます。
 この本は、多くの方に読んで頂きたいために、タイトルは『守谷城と下総相馬氏』とさせて頂きましたが、フィクションは一切ありません。戦国の乱世の中、守谷城を舞台として、一所懸命に生き抜いてきた歴代城主たちの、戦さや内紛などの事績を文献に基づき綴っています。また、江戸時代、守谷を有名にした「平将門伝説」は、守谷の歴史に欠かせませんので、将門が関わる各地の伝承をも取り上げ、さらにこの地域の戦記物の一部を紹介し、幅広く歴史を掘り起こす試みをしました。「伝承を大切に」地元守谷の歴史を理解いただき、まちづくりの一助になれば幸いです。
 令和二年に守谷市観光協会の市民ボランティアによって守谷城址の環境が整理されました。長年にわたり放置されて草木が生い茂り暗くて近寄りがたい雰囲気の城址でしたが、見違えるほど明るく環境整理されて見事に甦りました。城址の案内文とイラストは楽しく学べるよう工夫され、要所には手作りのベンチが配備されています。世間には余り知られていない守谷城ですが、改めて環境整理された城址をつぶさに見ると保存状態はきわめて良好で代表的な土の城として再評価されるべきと思います。
 この『守谷城と下総相馬氏』を書くきっかけは、佐藤雀仙人(さとうじゃくせんじん)著『下総と一茶』の一節に「もう一つ忘れられているのは、その後の守谷城主たちである。史実で明白な相馬小次郎師常から、五代師胤にわたる約百余年の善政を書き残すことの方が、守谷史には大切なのであるまいか」と示唆されておりますが、初代師常から五代の相馬氏当主が守谷に在住した史実の文献や伝承は現在まで未出です。また佐藤雀仙人氏は奥州相馬氏の史料を見て五代師胤(もろたね)としていますが、下総相馬氏の系統では五代目は次郎左衛門尉胤氏(じろうざえもんのじょうたねうじ)で、奥州相馬氏の五代目は彦次郎師胤(ひこじろうもろたね)です。このように相馬氏は、下総相馬氏と奥州相馬氏の二系統があり、各系図も複雑かつ混迷を極めています。間違いを犯し易く、出来る限り整理したいと考えたのが下総相馬氏研究の動機でした。
 本書では、守谷城を詳しく紹介すると共に、平将門の子孫を称した中世の守谷城主下総相馬氏、近世、旗本として相馬家を全うした歴代相馬氏、および親族の小田原藩士の相馬氏、近世の守谷藩の支配者等々の事績を出来るだけ紹介いたします。
下総相馬氏については、平成十四年に刊行した川嶋建著『常総戦国誌守谷城主相馬治胤(はるたね)』を元本として、構成を変えて歴代の城主を前面に出して書き直しましたが、何分にも各城主たちの生没年が不明で、何人かの当主の事績は不明のままとしています。
 また、本書は煩わしい位に出典を明記しております。これは、読者の皆様が、もとの史料に立ち返る補注になればと思いまして記しました。守谷城と下総相馬氏は、まだまだ世間には知られておりません。この書が、守谷城と相馬氏に関心を持たれる方にとって、少しでもお役に立てれば幸いです。
令和四年二月
川嶋建
石井國宏