「将門すでに柏原(かしわばら)帝王(桓武天皇)の五代の孫なり。たとい、永く半国を領せんに、あに運にあらずと謂わんや、昔、兵威を振いて天下を取る者、皆史書に見るところなり、将門、天に与えたるところは、既に武芸にあり。思い憚(はか)るに、等輩(とうはい)誰か将門に比(なら)ばん。」(『将門記(しょうもんき)』)と新皇宣言します。
律令制の継嗣令によると、天皇の子孫は、四世までが「皇親(こうしん)」と呼ばれ、親王より五世の者については、王の称号を獲るといえども、皇親の範囲には含まれておりません。
その後改正され、慶雲(けいうん)三年(七〇六)の格(きゃく)で、「五世孫」は皇親の範囲に含まれました。
しかし、延暦(えんりゃく)十七年(七九八)、継嗣令の通りに戻されて、「五世王」は皇親から除かれました。
将門の場合、祖父の高望王が、寛平(かんぴょう)元年(八八九)に臣籍降下し平高望を称しています。つまり、高望は皇親を離れています。
平将門系図