平将門の乱

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 平将門の父は、『家系図』で良将(よしもち)、『将門記』では良持(よしもち)とあり、どちらでも「ヨシモチ」という(川尻秋生著『平将門記の乱』)、『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』によれば、従四位下鎮守府将軍(じゅしいのげちんじゅふしょうぐん)良将とあり、末弟の将種(まさたね)は『師守記(もろもりき)』に名が出てきますが『将門記』に名がなく、良持の鎮守府将軍時代の現地妻の子と思われます。
 「平将門の乱」の発端は、将門の父の遺領を一族が掠(かす)め取ったことらしく、将門が大国玉(おおくにたま)(桜川市)の大領主家の平真樹(まき/まさき)からの帰り道、野本(のもと)(筑西市赤浜)で待ち伏せしていた源護(みなもとのまもる)の倅たち扶(たすく)・隆(たかし)・繁(しげる)ら三兄弟の襲撃を受け返り討ちにして、源護の根拠地を襲撃、野本・石田・大串を焼き払い、一族の長老国香も戦乱に巻き込まれ戦死し、そのために叔父たちが参戦してきます。水守(みもり)の館(つくば市水守)の良正(よしまさ)は、「川曲村(かわわむら)の合戦(八千代町~下妻市野尻の辺り)」で将門に敗退し、兄の良兼(よしかね)を誘いました。良兼は上総国から出陣して下野国境(しもつけのくにざかい)付近で合戦し、敗れて下野国府に逃げ込みます。将門は国府を包囲しますが、囲みを解き妻の父良兼を逃がします。
その間に、源護の訴訟で、将門と真樹は、官府に呼び出され上洛しましたが、大赦により帰郷が許されます。
 父の遺領問題で伯父国香を討ったことに端を発し、一族間の抗争が激化し、さらに、国衙(こくが)と在地豪族の紛争に介入し、常陸・下野・上野の国府を襲撃し関東の大半を占領、新皇と称しましたが、天慶(てんぎょう)三年(九四〇)、従兄弟の常陸大掾(ひたちだいじょう)平貞盛(さだもり)や下野押領使(しもつけおうりょうし)藤原秀郷(ひでさと)らによって討伐されました。
『将門記』によれば、将門は新皇(新しい天皇)を称し坂東に独立国家を建設しようとしていました。
将門は国家から「逆賊」の汚名を着せられ、忌み嫌われてしまいました。
 しかし、「将門の乱」について記述した書物は、将門記・陸奥話記・今昔物語集・扶桑略記・保元物語・平治物語・源平盛衰記・平家物語等々非常に多く、江戸時代になって大衆娯楽として読本(よみほん)・歌舞伎・錦絵などで親しまれ人気を集めます。
各地に伝わる将門伝説は、青森県から熊本県に至る三十九都府県に及び、その数は一五五五件もあります(村上春樹著『平将門』)。将門は一千余年に亘って根強い人気と信仰を集めている国民的ヒーローと言えます。千葉氏や相馬氏などは、将門の後裔(こうえい)を名乗っています。逆賊視されながら、これほど評価が変わる人物は他にはいません。
 「平将門の乱」で生じた歴史的出来事は、「武士の誕生」の起点となったことです。
豪族が貴族の末端に位置し、やがて中央へ進出して武門の家柄を興すキッカケを作ったことと言えるでしょう。
平貞盛の伊勢平氏、藤原秀郷の秀郷流藤原氏、武蔵介(むさしのすけ)源経基(つねもと)の清和源氏です。