『将門記』について

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 「平将門の乱」を実録的に記述した『将門記』ですが、写本は二つ伝えられ、「真福寺(しんぷくじ)本」と「楊守敬(ようしゅけい)旧蔵本」、いずれも国重要文化財に指定されております。『将門記』は巻首部分が欠落しており、書名を知ることができませんので、仮に付けられた書名です。『吾妻鏡』では、「将門合戦状」を絵巻にして鑑賞している場面が二例確認できますが、あるいは『将門記』も絵巻として作成されたかも知れません。
 また、巻首の欠落により、将門の乱の発端がよく判りません。
『将門略記』では、「良兼(よしかね)は将門の伯父なり、しかるに良兼、いささか女論(にょろん)に依りて舅甥(きゅうせい)の中、既に相違う」。
 『今昔物語集』には、「将門ガ父失セテ後、其ノ伯父良兼ト、聊(イササカ)ニ吉(ヨ)カラヌ事有テ、中悪(ナカアシ)ク成リヌ、亦、故良持(よしもち)ガ田畠(デンバタ)ノ諍(アラソイ)ニ依リテ、合戦ニ及ブト云」。さらに、『歴代皇記』に引用された「将門合戦状」には、「始め伯父の良兼と将門が合戦し、次に平真樹(まき/まさき)に語らわれ、承平五年(九三五)二月、平国香(くにか)ならびに源護(まもる)と合戦する。」と発端を挙げています。
 成立年代は不明ですが、『真福寺本』の奥書に「承徳(じょうとく)三年(一〇九九)正月廿九日大智房に於いて、酉(とり)の時ばかりに書き了(かきおわ)んぬ」とあり、成立の下限は十一世紀末として上限を十一世紀前半と考えられています。しかし、文中に「天慶三年六月中記文」の記述があり、成立年月と考えられますが、明確に否定する理由がないものの定説に至っておりません。
 作者についても諸説があります。①リアルな合戦の描写、土地勘、将門への同情的な書き方から将門と関係深い者が作成したという説。②将門書状(天慶二年の藤原忠平宛)や、官符の記録類が多く含まれており、これらを参照できる京で書かれたとの説。③東国で書かれた原文を中央で加筆したとする説。
 ①に関しては、将門討死後に家来で守谷市大木の旧家、須賀(すか)家の須賀与作が討手を逃れて大木山蓮乗院の「竜宮浄」で、筒戸の真福寺(禅福寺)の僧の協力を得て「将門記」を執筆したとの説もあります(山崎謙著『平将門正史』)。
「平将門の乱」の合戦年表
承平五年(九三五) 二月 将門、平真樹宅からの帰り道、野本(明野町)で、源護一族の待ち伏せに遭うが撃退する。源扶・隆・繁の三兄弟は返り討ちにされて敗死。
二月四日 将門、源護の館・従類・伴類の舎宅を襲撃。石田の舎宅に居た伯父の平国香(たいらのくにか)も戦死。
承平五年(九三五) 十月二十一日 将門、叔父の良正と川曲村で合戦し破る。良正は兄良兼に合力を乞う。
承平六年(九三六) 六月二十六日 伯父の良兼、上総国より常陸国へ出陣し、国香の嫡子貞盛を参戦させる。
七月十七日 将門、良兼と合戦し、下野国庁(栃木市)へ追い詰めたが囲みを解き逃亡させる。
十一月一七日 将門と平真樹、源護の告発状で、素早く上洛し事件の大要を奏上し兵(つわもの)の名を高める。
承平七年(九三七) 五月十一日 将門、恩赦(朱雀天皇の元服)により帰国。
八月六日 良兼、子飼川(小貝川)の渡し合戦で将門を破り、来栖院(くるすいん)・常羽御厨(いくはのみやま)(八千代町栗山)を放火。
八月十七日 将門、堀越の渡し(八千代町辺)で、合戦を挑むが破れ敗走し飯沼に逃げる。
八月二十日 将門の妻子、葦津(あしつ)の江(飯沼の西岸カ)で良兼軍に捕えられ、上総国へ護送される。
九月十日 将門の妻(良兼の娘)、舎弟の公雅・公連の謀らいで将門の許へ帰される。
十月九日 将門、真壁郡へ発向し、放火・略奪する。弓袋山で対陣するも良兼は現れず。
十二月十四日 良兼、子春丸の手引きにより岩井営所を夜襲する。将門、火急の知らせ有って撃退する。
天慶元年(九三八) 二月二十九日 将門、上洛する平貞盛を千曲川に追い、襲撃するが逃げられる。
天慶二年(九三九) 二月 将門、武蔵国の權守興世王・介の源経基と足立の郡司武蔵武芝の紛争に介入する。
三月二十五日 源経基の誣告(ぶこく)により、将門の私君である参議藤原忠平、実否の御行書(みぎょうしょ)を出す。
五月二日 将門、常陸など五ケ国の解文(げぶみ)を集め、無実を訴える。
六月上旬 貞盛、将門召喚状を持って関東ヘ下向、将門に命を狙われる。
十一月二十一日 将門、常陸国府に談判に行き合戦となり国庁を焼く。常陸介藤原維幾を鎌輪宿に連行。
天慶二年(九三九) 十二月十一日 将門、下野国庁を襲い、印鑑(いんやく)(国司の印と城門や藏の鍵)を奪い、国司を追放する。
十二月十五日 上野国庁を襲い、印鎰を奪い、国司を追放する。巫女が憑依(ひょうい)し「八幡大菩薩の使いである」
この頃 「朕が位を授ける」と囗走り将門は再拝して、親皇を称する。舎弟の将平諫めるが退ける。
十二月二十七日 信濃飛駅、平将門、興世王の謀反を報ず(将門略記)。
天慶三年(九四〇) 一月上旬 将門、常陸へ再出発、貞盛・扶の妻を拘束するも釈放する。
二月一日 将門軍一千、貞盛・秀郷軍四千、将門軍は川口村(八千代町水口(みのくち))の合戦で敗走する。
二月十三日 貞盛・秀郷軍、岩井営所を急襲する。将門軍いつも八千余人参集が四百余人しか集まらず。
二月十四日 貞盛・秀郷軍、北山の合戦(坂東市内で特定は困難)で、将門を討ち取る。
同日夜半 良文、安部(倍)忠良(ただよし)に、将門戦死を伝える(川尻秋生著『古代東国史の基礎的研究』)。
二月十五日 安部忠良、将門殺害を上野国に伝える(同左)。
二月十六日 信濃国飛駅、貞盛・秀郷の将門射殺のことを報ず(将門略記)。
参考資料『将門記』・『日本紀略』・『古代東国史の:基礎的研究』

 次ページに、「平将門の乱」合戦地図を掲げます。将門の敵になる伯父たち国香・良兼・良正の三兄弟は常陸大掾で地方豪族の源護の娘と結婚しています。
 当時の結婚は、招婿婚(しょうせいこん)で、地方豪族の娘婿となり、子が豪族家を継承する訳です。ただし、子供の姓は男系です。つまり、地方の確たる家々が相次いで源平藤橘(げんぺいとうきつ)になってしまったのは、招婿婚という習慣によることが多いのです。源護の娘婿になった国香・良兼・良正の三兄弟は、筑波山周辺の台地上に屋敷を構え(石田・水守・羽鳥(はとり))、対する将門は、衣川(きぬがわ)(鬼怒川)・子飼川(小貝川)流域の広大な氾濫原野に位置しています(鎌輪営所・岩井営所)。

「平将門の乱」関連地図
『出典:坂東市立資料館(坂東郷土館ミューズ)編「坂東市本将門記【現代語訳】」』