将門の生年と没年

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 将門の生年には諸説あります。『相馬当家系図』では、「寛平元年(八八九)八月、下総国相馬郡米野井村於いて降誕、その身鉄の如し、今以つて出生の処、堂を建立三仏堂と号す」。ただし、寛平元年は祖父高望王が平姓を賜わった年といわれ(『日本紀略』)、東国下向前と考えますので出生は疑問です。
 平成二十五年(二〇一三)「岩井将門まつり」は、平将門公生誕一一一一年と銘打ちまして開催されましたが、坂東市は将門の誕生は延喜三年(九〇三)としています。出典は『成田参詣記』で、『将門記』にある野本合戦の後「将門、常陸の源護の根拠地を襲う」の承平五年(九三五)二月の戦いの時、将門(年三十三)から逆算して、将門の生年としたようです。
 将門の戦死は、三十八歳で妥当でしょう。

平将門像
(坂東市岩井ベルフォーレ)

 守谷地方では、将門の没年を、天慶三年正月二十二日とするのが普通になっております。『将門記』から天慶三年(九四〇)二月十四日が定説になっておりますが、約二〇日早いです。この正月二十二日は、『相馬当家家系図』や『海禅寺縁起』はたまた『禅福寺縁起』にも記載されています。
 この出処は、鎌倉末から南北朝初期に成立したという『源平闘諍録』の記事に、「天慶三年正月廿二日、天台座主法性房(ほっしょうぼう)の尊意(そんい)、横河(よかわ)(比叡山横川)において大威徳(だいいとく)の法を行ひて、将門の親王を調伏(ちょうぶく)せしむるに、紅の血、法性房の行ふ所の壇上に走り流れにけり。爰に尊意急ぎ悉地(しっち)成就の由を奏聞(そうもん)せしかば、御門御感(みかどぎょかん)の余りに、即ち法務の大僧正に成されにけり」から、将門が二十二日に殺されたと勘違いしたと思われます。

史跡「将門首塚」
(東京都千代田区大手町)

 臨済宗妙心寺派大雄山海禅寺(だいゆうざんかいぜんじ)(守谷市高野)は、『海禅寺縁起』によりますと承平元年(九三一)平将門の創建といいます。
同寺に安置されている「将門位牌」には「平親皇将門公当山開基 徳怡廉三(とくいれんざん)大禅定門 尊像」、裏面に、「天慶三庚子正月廿二日」とあります。

平将門位牌(海禅寺蔵)

 曹洞宗徳怡山長龍寺(とくいざんちょうりゅうじ)(守谷市百合ケ丘)は、『長龍寺ノ沿革』によりますと、延暦年間(七八二~八〇六)、弘法大師、遊歴の際、堂宇を開創し、その後、辨慧(べんけい)僧都、東明庵(とうめいあん)と称し、延長二年(九二四)、平将門、東明庵改め、長龍寺と称したため、将門を開基としています。
同寺の「将門位牌」は「当山開基長龍寺殿徳怡簾参大禅定門大相国公(とくいれんざんだいぜんじょうもんだいしょうこくこう)」です。裏面は文字無しです。

平将門位牌(長龍寺蔵)