平将門の位牌に関して、江戸時代に書かれた「古記録」および明治から現代に至るまで、書かれた幾つかの「出版物」を取り上げ紹介します。
①『相馬藩世紀第二』(奥州相馬氏の藩主、相馬尊胤の事績を記した記録。)
「享保十三年(一七二六)二月朔日、下総国高野海禅寺江御代参、稲垣平右衛門被遣、物頭役也。相馬将門八百年忌未満、取越法事執行、此段寺社御奉行江戸達、法会之旨海禅寺江江戸御屋敷江御代参ノ儀願出、此寺之由来、此説無之、
白銀拾 枚被供(尊胤)、同五枚昌胤(まさたね)君、同五枚徳胤(のりたね)、同三枚主膳君(福胤)、同壱枚御奥方、同壱枚徳胤君ノ御奥方、
相馬郡大雄山海禅寺、臨済宗而、御旗本小次郎殿先祖、小次郎胤晴・嫡子整胤法名實山墓所等有之、此外将門ノ御位牌ハ、常陸国信田郡船子村海眼寺ニ茂有之、曽洞宗也、右何ノ訳ニテ御位牌有之哉、御法名春渓浄心大禅定門。
「この寺の由来この節まで伝説これ無し」とありますが、寛文四年(一六六四)に守谷藩主堀田正俊が寄進した「海禅寺縁起」は、見てないのでしょうか?
②『奥相秘鑑』享保十年(一七三一)相馬市有形文化財指定。完成は明治四年(一八七一)
藩主相馬義胤の命により、相馬中村藩の学者富田高詮(たかたか)が。相馬家に伝わる古記録を基に、家伝秘事を整理、編さんした地誌。
「紀州高野山御宿坊之事
応仁元年ノ頃(十五世紀)、讃岐守隆胤(高胤)、高野山無量光院ヲ相馬之宿坊ニ御定、先祖ノ追薦冥福此寺ニ於テ執行シ給フ、
天正十九年五月廿二日、長州義胤御登山ノ節、宿坊西院西方院ニ替テ同日宿坊証文ヲ納玉フ、其前年五月、舎弟兵部大輔隆胤戦死、供養ノ為、西方院ニ於テ供仏施、僧作善(さぜん)ヲ尽サレ石塔ヲ建立、慶長十六年二月廿三日、大膳大夫利胤同所小田原真徳院ヲ宿坊トシテ証文ヲ納ラル此寺ハ古住、標葉ノ大将左京大夫清隆ノ宿坊也、
明応元年、標葉相馬ノ御手ニ入リ其後標葉ノ土民ハ真徳院宿坊ナリ、西方院何レノ事カ宿坊真ニ替り慶安四年(一六五一)大膳亮義胤遠去、法諱巴陵院殿月海霜剣大居士ト号ス、、此節真徳院願ニ依テ御院号ヲ取テ巴陵院ト改メ、先代ノ零碑ヲ安置、無量光院ヨリ伝来ノ願文帳巴陵院ニ有リ、旧士ノ姓名多シ、是以左ニ記ス、(以下略す)」
奥州相馬氏の第十一代当主相馬隆胤(高胤)は、応仁二年三月二十一日高野山無量光院にて追善供養を執行済です。(『相馬市史』)、応仁元年(一四六七)高胤は高野山無量光院を相馬氏の宿坊に定め先祖の供養を執行しています。天正十九年五月廿二日相馬義胤は高野山に登山した際、宿坊を西方院に替えています。その前年五月に父隆胤(第十五代藩主)を伊達政宗との戦いで戦死した供養を執行し、石塔を建立、さらに、嫡子の利胤(第二代藩主)の石塔を高野山真徳院に建立しています。結果的には義胤・利胤共、現在、高野山真徳院に五輪塔があります。両方とも造立者は利胤の嫡子義胤(近世三代藩主)です。
なお、本文中にある標葉の標葉(しねは)清隆は、隣国の当主でしたが相馬氏に攻め滅ばされています。相馬氏よりも早くから真徳院を宿坊としていました。
③『平将門論』(広瀬渉著、明治二十七年刊、『千葉東葛飾郡誌』所収)
「将門戦死の日を二月十四日と云い、或いは四月十四日と記す書もあり、又は三月十四日とするあり、此中二月十四日を正確となすべし、而して相馬家系図並に、高野山宝蔵院に在りし戒名には、「天慶三年正月二十二日葦毛馬策中、土岐矢討、行年五十三歳とあり、戒名には、「天慶三年正月二十二日、玄性院殿信隠宗卜大居士霊位」、守谷町なる徳怡山長龍寺は、将門に縁故深寺なるが、其の戦没を聞き、住僧私に法会を営み、又私に諱を贈りて、「長龍寺殿徳怡廉参大禅定門」と思いしと、同寺御朱印由緒に見えたり。
④『平将門故蹟考』(織田完之著、明治四十年刊。)
将門位牌、守谷徳怡山長龍寺にあり将門の造営に係る寺と伝ふ、此の寺に将門の位牌あり、
諡号「長龍寺殿徳怡廉参(ちょうりゅうじでんとくいれんざん)大禅定門」と云ふ。
将門位牌 同郡高野村海禅寺にもあり、「春渓院淨心大禅定門」と云ふ。
将門位牌 常陸信太郡舟子村海眼寺にありし位牌、後に宝蔵院より出現せるものには、「玄性院殿天慶三年九月十五日」と記したる由、平田篤胤の蔵本「千葉系図」の付箋中に此事を載たり。」
⑤『平将門伝説ハンドブック』(村上春樹氏著、平成十三年刊)
将門位牌 稲敷郡美浦村舟子、
平将門がここに七堂伽藍を建てて、舟子山海源寺と命名したと伝える。往昔、この寺には将門の位牌が存在した。
相馬家の伝えでは、(注元小田原藩士の相馬氏)それには「天慶三年正月二十二日「玄性院殿信隠宗卜大居士零位」と記されており、高野山宝蔵院に収められたという。
大雄山海禅寺 北相馬郡守谷町高野
承平元年、平将門が守谷に偽都を築いた際、高野山に擬して創建したという。この寺内に、新皇堂があり、将門の霊を祀り、国王明神と称した。将門の位牌もあり、「春渓院浄心大禅定門」という。
長龍寺 北相馬郡守谷町守谷
平将門が守谷城主の時、造営したといい、将門の位牌を伝える。「長龍寺殿徳怡廉参大禅定門」とある。
将門位牌 和歌山県伊都郡高野町高野山
下総相馬氏が高野山一心院谷宝蔵院に、平将門の位牌を奉納した。
「天慶三年正月二十二日玄性院殿信隠宗卜大居士霊位」とあったという。
同書によると、出典は広瀬渉氏著の『平将門論』明治二七年刊。(『千葉県東葛飾郡誌』所収)
⑥『美浦村史』(美浦村史編さん委員会発行、平成七年刊)
「海源寺創建の事情を史料に求めると江戸崎城第四代城主土岐原景成開基、東州周道禅師開山の土岐原氏菩提寺、江戸崎町門前にある管天寺の末寺で、明応二年(一五〇一)舟子城主佐野吉秀開基周道禅師の高弟道胤開山の曹洞宗である。
元禄六年(一六九三)月峰和尚の書いた縁起には、平将門が薬師如来の霊験を感徳し、御堂を再建、山号を舟子山海源寺と改めた由、ちなみに、将門の位牌はいつの時から紛失していました。