信田系図の概要

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 下総相馬氏は、相馬系図に、いわゆる「信田系図」を加え、将門の直系を自称しています。同系図は、将門討死後、その遺児の十代目の相馬師国に子供が無く、千葉常胤の次男師常が養子となって相馬家を継ぐのですが、しかしながら、信田氏は名前があっても史実が伴わないので、果たして本当に実在したのかは疑問視されています。
 将門から相馬師常までの二四〇年間の空白を埋めるものが、この系図です。

 

 信田系図は、『相馬当家系図』に詳しく記述されていますので引用させて頂きます。
将門・・寛平元年(八八九)乙酉八月、下総相馬郡米野井村(取手市米ノ井)に於いて降臨、其身鉄の如し、今出生の所を以って堂を建立、三仏堂と号す、委細先に焉(ここに)記す。
将国・・相馬小次郎、父将門討死後、信田郡(稲敷市浮島)に隠伏する、時節、父の敵秀郷・貞盛を窺い討たんと欲したが、彼両人昼夜寝食を忘れ、然れとも父の敵討(かたきう)ちを得ず、程無く病死、将国、苗字を信田と相改める。
文国・・信田小太郎(しだのこたろう)、従五位下、下総守に任ず。天暦十乙卯年(九五六)三月、姉の千手妃(せんじゅひ)、小山行重(おやまゆきしげ)に嫁す。
    それより行重常州へ引き移り、同年秋に上洛す。思うが儘に常州任職の御行書(みぎょうしょ)を申請して帰国す。直ちに母と小太郎を信田郡より追い出して押領する。小太郎、母共に上洛して、行重の反逆を奏聞せんとて上京、道路にて母死す。先祖家臣供せんとて四人、信田を慕いて来る、母の死去後、髪を切り四人は出家す。小太郎は立ち帰り、譜代の家臣浮嶋太夫(うきしまだゆう)と心合せ、信田・河内(かわち)に城郭を構え籠城す。浮嶋父子六人、其の他家臣等、行重を退治せんと合戦、既に急也、小山行重、浮嶋籠城を聞き、横須賀を大将として、多勢を指し向け、合戦度々に及ぶ、浮嶋討ち負け、父子六人、其の外討死す。小太郎既に自害せんと刀を抜き持つの処、行重の家人早速に乱入して、小太郎を生け捕り、小山館に禁獄せしむ。行重は千原太輔(ちはらだゆう)を召し寄せ、今夜、信田を流罪にしむべきと言い渡す。同夜、千原の船一艘、信田を乗せ、我が身も同船し澳(おき)を指して乗り出す、夜半頃、千原は三代の主君を流罪にせん事、神慮・冥罪を恐れけんとて、重石を手に縄に押切り、沈みたる様に見せ、千原は船を漕ぎ寄せ、信田を逃がす、千原は、行重へ流し沈むこと子細無きこと言上す、行重は千原に疑いを発し信田の生死を問い責め、終に責め殺す。小太郎は諸国を浪牢、康保二年(九六五)奥州に至る。然るに在長(在丁)の鹽路庄司(しおじしょうじ)は、小太郎を養子と定む。奥州国司が下向し、當国の在長出仕に及ぶ、鹽地庄司、その身老衰に附き、嫡子小太郎を指し出す、在長等小太郎の同座を免(まぬか)さず、時に、小太郎系図を出し由緒を委しく語る。国司聞き届け、暫く国司を小太郎が預かり、五十四郡の政務職に居る、国司上洛して大内に於いて、行重の逆心文国を赦免、本領の御教書を願い奉るの旨、奏聞を経る。常陸・下総任職の勅宣を蒙る、国司奥州へ再び入る、文国常州に戻り、行重一族を誅伐す。
    二十五歳にて出世、千葉郡千葉寺(せんようじ)(千葉市中央区)に廟在りと云々。
千手妃・文国の姉、小山太郎藤原行重の室、夫行重の逆心の企て、文国を禁獄する一間の時、千手妃、一間忍び出て、信田・玉造の本系図を盗み出し信田小太郎文国の許に至る。面縛(めんばく)の処、重宝二品を潜かに文国に渡す、この科により、行重は千手妃を追い出し、小太郎文国の行方を尋ねる、剃髪して尼となり、千手尼と云う、廻国伝承、これにより姉の厚恩少なからず、小太郎と奥州に於いて対面し、年を経て死世、下総国筒戸村の十一面観音は化身、死期の胸に観音二字を顕し、千手尼脚隻(きゃくせき)ふとし筒戸十一面観音、如左父申子の由、申し伝うと云々。
頼望・・小太郎、信太住、従五位下、常陸守、号す覺秀。
常望・・小太郎、信太住、従五位下、下野守。
将長・・小太郎、のち左衛門尉、信太住、法名号道了。
長望・・小太郎、信太住。
兼頼・・信太小太郎、信太住、左衛門尉。
重国・・初め常州信太住、信太小太郎と名乗る、長治元年(一一〇四)常州信田より下総国相馬郡へ移り苗字を相馬次郎左衛門尉と相改める。以降、代々相馬と云う。
胤国・・相馬小次郎、相馬郡に居住する、中務太夫。
師国・・相馬小次郎、中務太夫。
某(師国の弟)・・小平六、早世。
 この信田小太郎と姉の貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)は、幸若舞(こうわかまい)「信田(太)」と内容が良く似ています。おそらく、将門の子孫を自称する相馬氏の伝承を加味しながら、幸若舞「信田(太)」が成立したのでしょう。あるいは、相馬氏の系図に、「信田」せん。将門と相馬氏の間に、「信田」氏を介在させ、相馬氏が将門の直系子孫となります。
 師常は養父の師国の「師」と実父の常胤の「常」を頂戴し千葉氏の通字「胤」は用いませんでした。