相馬氏系図の問題点

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① 「信田系図」の有り無し
 有 将門-将国-文国-頼望-常望-将長-長望-重国-胤国-師国-師常
  『千葉系図』(続群書類従巻百四十三)、『松羅館本千葉系図』、『相馬当家系図』、『相馬左近太夫・民部太夫系図』、小田原藩士の末裔所蔵の『相馬当家系図』、『寛政重修諸家譜』、『歓喜寺所蔵相馬之系図』
 
 無 『寛永諸家系図伝・奥州相馬氏』
  *信田系図の採用は、下総相馬氏は当然として、千葉氏も採用しているのには驚きです。奥州相馬氏の「寛永譜」は、当時、千葉系図を参考にして作成されたもので、「忠頼(将門の跡を継ぐ)」も採用しております。
 
② 師常の改名
 『千葉系図』/「続群書類従巻百四十三」に「胤常」、『妙見寺本千葉系図』に「師胤」、『吾妻鏡』の文治四年(一一八八)三月十五日条および文治五年六月九日条に、「千葉次郎師胤」(P.120参照)と記載。
       *師常は、始め師胤を称したと思われます。改名したのは文治五年頃、「奥州合戦」で源頼朝から「さうまの二郎」と呼ばれ、相馬御厨の支配を公認された時期で、両総千葉氏の通字である「常」を名乗り、御厨の支配を確実にしたかったのでしょう。この『妙見寺本』は、丸山敬司氏の論文から引用しております。
 
③ 胤継・胤村の前後数代の曖昧さ

 

 *胤経(たねつね)は、系図に小次郎、左衛門尉とありますが、「奥州相馬氏系図」『島津家文書』・に無く実在が疑わしいです。また、胤村(たねむら)は、『相馬当家系図』などに名前がありませんが、『吾妻鏡』に登場する実在の人物です。