二、相馬郡の分割支配

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 鎌倉・南北朝時代、相馬郡域は手賀郷・藤心郷・文間郷など郷単位で把握されていました。
 鎌倉時代後期の正和四年(一三一五)の「相馬胤顕(たねあき)後家尼妙悟譲状」/「『相馬岡田文書』には、旧沼南町泉村を「ミなミそうまのうちいつミのむら」と記しています。
また、応永二年(一三九五)と称する「下総国南相馬郡等田数注進状案」/『相馬文書』に、下総国南相馬の村の田数が注進されています。
 この古文書は奥州相馬氏が作ったものですが、末尾に「応永二」と異筆で書かれ、奥州相馬氏の所領以外も書かれており謎の文書です。しかし、南相馬郡と明記しています。
 さらに、応永三年(一三九六)の紀年銘がある、取手市米ノ井の龍禅寺の地蔵菩薩の胎内には、「下総国北相郡米井山龍禅寺」と墨書銘が残されています。「北相郡」は、北相馬郡のことでしょう(『取手市史・社寺編』)。
 この頃から、相馬郡を南北二つとする考えが芽生(めば)えてきます。さらに十六世紀初頭になりますと、『本土寺過去帳』には永正二・三年(一五〇五・〇六)頃のものとして、「中相馬柴崎右馬五郎」が記述されています。
「柴崎」は我孫子市内の地名ですが、柴崎は「中相馬」と呼ばれました。したがって、十四世紀中ごろには、手賀沼を境として、南・北ふたつの地域に分断され、十六世紀初頭には、相馬郡は中相馬を加えた三つに分けて把握されていました。
 それでは、次ページの地図で南・中・北相馬郡を確認しましょう。
近世の天保十四年(一八四三)作成の、「安房・上総・下総三国図」の一部です。
①北相馬郡は、地図上部の利根川左岸の「守谷」「取手」・一帯です。
②中相馬郡は、利根川と手賀沼に挟まれた「布施」「我孫子」・一帯です。
③南相馬郡は、旧沼南町と、旧柏市の葛飾郡の内、手賀沼水系に属する二カ所です。
 地図の赤い線は、当時の街道を表わしていますが、葛飾郡の「鎌ヶ谷」方面から「道野辺」・「酒井根」・「小金原」は、尾根道らしい地名です。推定ですが、この赤い線は「分水嶺」と仮定できます。
 相馬御厨の四至の南限「篠籠田(しこだ)」、及び相馬氏の所領である「増尾」・「藤心(ふじこころ)」・「佐津間(さつま)(薩摩)」・「粟(あわ)ノ(粟野)」などが、手賀沼水系、つまり南相馬郡といえます。

天保14年(1843)「安房・上総・下総三国図」
(出典:人文社)

 鎌倉末期には多くの御家人が幕府への奉公も苦しくなって行きました。
相馬氏も分割相続が続いたため庶流家が独立する傾向にあり、代を重ねる度に惣領の取り分が少なくなっております。したがって一族を束ねる経済力も落ち、特に相馬氏は嫁ぐ娘に土地を与え、岩松氏や島津家などの他家に土地が譲渡されています。さらに奥州相馬氏の分流で相馬宗家の解体が加速されます。