平良文は、『将門記』に登場しませんが『将門記』以外の史料から、良文は「平将門の乱」の鎮圧者側に居たことを、川尻秋夫博士は『大法師浄蔵伝』の奥書から読み説いています。奥書を翻刻すれは次の通りです。
「将門事 外記々(げきき)云、此日申(さる)三点、信濃国飛駅使馳来(ひえきしはせきたり)、其奏文(そうもん)云、上野国去十五日牒(ちょう)今日亥刻到来偁(いう)、安倍忠良(ただよし)今日巳時馳来申云、平良文等 夜半馳来申云、平将門今日十三日、於下総国幸島郡合戦之庭、為下野・常陸等軍士平貞盛・藤原秀郷等、被討殺己了(すでにおわんぬ)者、今日仁王会(にんのうえ)夕講、未了之前、有此奏文云」
「外記々」とは『外記日記(げきにっき)』のことで、日記によると、将門の戦死を、安部忠良が上野国に伝えたのが十五日巳刻(午前十時)、その前日の夜半、良文が安倍忠良に伝えています。実際の戦死日は『将門記』によれば十四日で、一日の開きがあります。良文が猿島郡の戦場近くに居て参戦していたことは間違いないでしょう。
良文の孫に、「平忠常の乱」を起こした忠常がいます。忠常は、下総・上総国の大私営田領主で、彼一代で大きな勢力を築いたかは疑問です。良文からの継承と見るべきで、良文は平将門の鎮圧者としての恩賞を足掛かりとして、忠常は大私営田領主に成長できたのではないでしょうか。つまり、良文は将門の敵役で、千葉氏の云う将門の協力者は否定されます。
『千葉大系図』は、良文は、「天慶三年(九四〇)五月、将門の旧領を賜る」と記し、『相馬左近大夫・民部大夫系図』の将門の項には、「貞盛・良文勅命を奉じて関東に下向し、之を誅スルとも雖も、其の身鉄なる故に之を誅するに能わず」とあり、貞盛と良文の協力を暗示しています。