下総相馬氏の支城

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①高井城(取手市下高井)は、小貝川河畔の低湿地に面した比高約十メートルの台地にあり、わずかに東西に尾根上に残る部分を道路が縦断しています。高井城址は、単純な縄張から判断して館跡と思われます。特に、土塁は南の外堀とともに、後に補強された可能性があります。近くに、臨済宗妙心寺派普蔵山高源寺(取手市下高井)が在ります。
戦国末期の城主は、相馬治胤の弟高井胤永です。

高井城址(取手市下高井)

②筒戸城(つくばみらい市筒戸)は、舌状台地の先端部に築かれた城で、城の三方は小貝川の湿地帯が囲んでいます。城跡に、臨済宗妙心寺派普門山禅福寺が在ります。城主として相馬家十六代胤廣の弟胤光、筒戸小四郎胤文(たねぶみ)、相馬求馬の名が散見されます。

筒戸城址(つくばみらい市筒戸)

③菅生城(常総市菅生町)は菅生町の東端、小谷(こや)沼に突き出た小台地で、周辺水田との比高八~十三㍍前後、台地突端部を本丸跡と伝え面積は約八千㎡。主要部三万三千㎡、Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ郭含め四万五千㎡になります。別雷(べつらい)神社と佐賀氏の氏神様の観音堂があります。佐賀氏は相馬氏の家臣として主水佐(もんどのすけ)あるいは主水と名乗っています。『東国戦記実録』によると永禄三年(一五六〇)、菅生城は馬洗城(坂東市)の横瀬能登守永氏に攻められ落城します。近くの中郷墓地に城主・菅生越前守の供養塔があります。ふれあい道路の玉台橋(常総市内守谷)は越前守の奥方「お玉の方」が落城の時、追手に討たれた悲話が地名として残っています。
平成十八年、土地改良事業に伴う発掘調査で「角馬出(かくうまだし)」と「畝堀(うねぼり)」が発掘されました(『菅生城址』常総市教育委員会)。

菅生城の畝堀(『菅生城址』常総市教育委員会)

④布施城(柏市布施)は、利根川を臨む舌状台地にあったとされ、現在はウイングホール柏斎場になっています。周辺には字「古谷(こや)」や「根古谷」の小字の広がりから、規模の大きい城が築かれていたと推測されます。『寛政譜』に相馬胤廣が布施を称するとありますので、支城のひとつでしょう。また、布施は相馬氏だけでなく小金城(千葉県松戸市)の高城(たかぎ)氏との関連性もあり戦国時代は相馬氏ついで高城氏の両勢力が伸びていたと考えます。
 
⑤高野(こうや)城(守谷市高野)は、別名「今城(いまんじょ)」とも呼ばれ、城の縄張りが極めて単純・素朴にできており戦国時代より以前に築かれた城砦とみられています。一部は城址公園となっています。城跡の遺構として、比高三メートルほどの土塁が残されています。城の面積は、北限が不明で、最大八千坪から五千坪位と思われます。築城者は不明ですが、『北相馬郡志』
は、天慶元年(九三八)、平将門が興世王(おきよのおう)のために築城したとの伝承を紹介しています。

高野城祉(守谷市高野)

⑥大木城(守谷市大木)には、小字「木戸口(きどぐち)」や「馬乗場(うまのりば)」があり、城主は「相馬一家連名帳」に、大木駿河守胤清(たねきよ)の名があります。
 
⑦御出子(おんでこ)城(つくばみらい市筒戸)内の妙見八幡神社は、平良文の創建と伝え、中世に相馬支族が在城といいます(『北相馬郡志』)。