守谷城の呼び名は、時代の変遷とともに変わってきました。戦国時代では、関宿城(野田市関宿)の梁田晴助(やなだはるすけ)は守谷城のことを「相馬要害(ようがい)(城)」と呼んでいました。梁田氏の書状を見た上杉謙信や北条氏政・武田信玄も、同様に相馬要害と書状に書いています。
江戸時代、歌舞伎『忍夜恋曲者(しのぶよるこいはくせもの)』(通称「将門」)を始めとする著作物は守谷城を「将門城」と云い一世を風靡しました。
明治になって「平将門城址」として記念碑も建ち最近の地図にも記載されています。近代になり、昭和二十四年十二月、「茨城県百景選定について」と題する通達があり、守谷町は「平将門城址」を候補名として推薦しました。ところが、主催者は勝手に「相馬城址」と変えたため、守谷町は町長名をもって、当初の名称たる「平将門城址」の呼称はそのままに、さらに「守谷」の二字を冠するよう要望しました。現在「守谷城址」が正式名称になっています(高梨輝憲著『広報もりや』第三〇三号平成元年九月)。