千葉常胤(つねたね)の二男である師常(もろつね)は、鎌倉時代の初期、源頼朝書状に「さうまの二郎」と書かれており、相馬御厨の支配を公認された相馬氏の始祖です。鎌倉時代の末期に四代目の胤村(たねむら)の孫相馬重胤(しげたね)が陸奥国の行方郡へ移住し「奥州相馬氏」の初代になります。下総国に残った五代胤氏(たねうじ)は「下総相馬氏」といわれ以降、南北朝の動乱などの幾多の戦乱を経て二十代治胤(はるたね)まで守谷城に居城していましたが、豊臣秀吉による「小田原合戦」で、北条方に与(くみ)した相馬氏の支配は終わり、徳川家康の関東入府そして江戸幕府となってからの守谷は土岐定政(ときさだまさ)・定義(さだよし)・頼行(よりゆき)、堀田正俊(ほったまさとし)、酒井忠挙(さかいただたか)が藩主として治めています。