守谷城址の遺構

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掘立柱建物跡(古墳時代中期の竪穴住居跡・戦国時代~江戸時代初期の掘立式建物跡)
遺物 土師質土器(ロクロ式のかわらけ・摺鉢・内耳鍋など)
同  陶器(瀬戸・美濃の茶碗・天目茶碗、摺鉢・甕など)
同  磁器(伊万里系・中国製茶碗・皿など)
同  土製品(土錘・管系土錘など)
同  金属製品(銃弾(鉛玉)・煙管・毛抜き・切刃など)
同  石製品(硯・砥石・碁石・石塔など)
同  古銭(開元通宝・宗通元宝・淳化元宝・永楽通宝・寛永通宝など)
 威信財(ステータスシンボル)としての京都風「手づくねかわらけ」は発見されませんでした。ところで、出土品の中に火縄銃の鉄砲玉があります。戦国末期には材質が三種類あり、①鉛玉・②鉄玉・③鉛青銅玉です。性能の良いのは、③の鉛青銅玉で硬度も高く、何よりも他の玉に較べて腐食しにくい事です。「小田原合戦」で激戦を展開した山中城の鉄砲玉の出土数一八八発の七八%が鉛青銅玉です。それに対して守谷城址の出土数三十一発の中、鉛玉が十九発、鉄玉が十二発です。出土数の少なさから天正十八年の「小田原合戦」時、合戦はなく守谷城は無血開城し、豊臣方の浅野長政・木村重茲(しげこれ)に接収されています。