三、守谷城の築城者

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 守谷城(相馬要害)は、一説に拠ると、鎌倉時代の初期、源頼朝の旗揚げに合力した千葉常胤の次男相馬師常が築城したとされますが、築城に関する史料は残されておらず、築城者も築城時期も不明です。『守谷町史』は、師常築城説を推定しています。守谷城の縄張を検討すると、その上限は鎌倉時代の要件を備えております。その後、永禄十一年(一五六八)には、北条氏により築城の粋を尽くした改築拡張を重ねられて、戦国末期まで相馬氏の本城として使用されたものです。
 相馬師常は、鎌倉幕府の御家人として鎌倉幕府に奉公していました。住まいは、鎌倉の巽荒神(たつみこうじん)(現巽神社、鎌倉市扇ガ谷一丁目)の向かい側に屋敷が在りました。すぐ近くに師常が勧請した相馬天王社(現八坂神社)が在ります。

巽神社(鎌倉市扇ケ谷)

 その北の裏山に「相馬師常やぐら墓」があり、宝篋印塔(ほうきょういんとう)と一石五輪塔が納められています。その師常の本貫地(地元)は、諸説あり守谷城もそのひとつですが、最有力候補地は、我孫子市の「羽黒前遺跡」(我孫子市新木)です。近くに相馬郡衙(そうまぐんが)跡とされる「日秀西(ひびりにし)遺跡」我孫子市中里が在ります。
 柏市藤ケ谷にある持法院の観音堂は、寺伝によりますと、千葉城主(千葉市中央区亥鼻(いのはな))の千葉介常胤が、仏師運慶に如意輪観音を彫らせ、一宇を建立して安置しました。「承久の乱」(ママ)後、次男で相馬氏を名のった師常は、居住する総州相馬郡番場村(柏市藤心)に、運慶の徒弟である登慶(とうけい)に、この尊像を造らせ、茅葺き屋根の堂宇を結び、厨子に藤の花を飾り安置しました。これにより人々は、藤萱(ふじかや)村と呼ぶようになったとされています。この持法院の創建に関する古記録は存在しませんが、寺伝では千葉常胤の次男相馬師常が、承久の乱後この地に居住したとしています。境内に相馬氏の墓地があり、その中の高台に平将門の五輪塔が鎮座しています。戒名は「玄性院殿信隠宗卜大居士」で高野山寳藏院と同じ戒名です。

持法院観音堂(柏市藤ケ谷)


平将門五輪塔(柏市藤ケ谷 持法院)

 師常が守谷に居なかったとすると最初の相馬要害(守谷城)の主は誰だったのでしょう。その有力候補は次の四名が挙げられます。
 
①相馬胤継説、『千葉大系図』は、近世に作成されたもので、同系図に「第三代相馬胤綱(たねつな)の子胤継は、下総国相馬郡を分領し、守谷城に居する。妙見堂と雄護山西林寺及び観音堂を修造し、此の裔、下総相馬を号す」とあり、胤継は守谷城主で、子孫は下総相馬氏と号したとしています。ただ、残念ながら、同系図は、胤村(たねむら)を奥州相馬氏の祖と誤っているなど信憑性は疑問視されています。史実は、胤村の孫重胤(しげたね)が奥州行方郡へ移住し、奥州相馬氏の祖といわれています。なお、『吾妻鏡』弘長元年(一二六一)七月十九日条に、胤村は、来る八月十五日開催される鶴岡八幡宮の放生会(ほうじょうえ)の随兵を病気の為辞退する旨、請文を提出しています。続けて「在国の輩四人辞退の請文を進ず」とあり、胤村は在国していたことが窺えますが、守谷に居住していたのかも知れません。後で述べるように、守谷に二系統の相馬氏がいたと推測した場合、胤継は守谷市内の高野城に在城していた可能性があります。
 
②八代相馬胤忠説、この相馬要害(守谷城)築城時期は、築城者の特定に欠かせませんが、『取手市史通史編Ⅰ』には、「下総相馬氏が守谷城を本拠地としたのは室町時代一五世紀初頭と思われる。」と記しています。
 モリヤという地名は、一四世紀末から一五世紀初頭の史料が初見です。応永二年(一三九五)以前の作成という「岩松氏本知行分注文案」に「一所野毛崎村円城寺豊前守知行、今度北相馬守屋入部」とあり、今度、北相馬守屋氏が野木崎村に入部したと解するならば、北相馬守屋氏が守谷城主であったと思われます。この相馬氏は、応安七年(一三七四)に出された「鎌倉府執事奉書」に相馬上野二郎とあります。『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』によれば、相馬胤忠が上野介を名乗っていますので「上野二郎」かも知れません。また、「千葉支流系図」/『続群書類従百四十四』および「相馬氏」/『松羅館本千葉系図』に、胤忠は「下総相馬祖」とあります。相馬家の第八代相馬胤忠が、初代の守谷城主の可能性があります。
 
③十代相馬胤宗説、海禅寺に安置されている「中世相馬氏の位牌」の冒頭の名前は、第十代相馬胤宗(たねむね)です。胤宗が初代守谷城主だった可能性も否定できません。全くの推定ですが、時期的にも十五世紀の城主と思われます。
 
④十六代相馬胤廣説史料で確かな守谷城主は相馬胤廣で、大永五年(一五二五)閏十一月と推定される「足利高基たかもと書状写」/『常総文書』に、「徳誕蔵主(のりのぶぞうす)の死去、是非無き次第に候、然者(しからば)、相守因幡守、無二の忠信を励み候、□節□之者共へ意見を加え候はば、簡要たるべく候、巨細(こさい)安西右京亮申し遣わし候 謹言」とあり、古河公方足利高基が、第十五代相馬徳誕の訃報に接し、嫡子の相馬胤廣が、高基に対し無二の忠信を励む様、宛所が無いため恐らく重臣に対し、意見する事が肝要だ。と依頼した手紙で、ここでいう「相守因幡守」は、第十六代相馬因幡守(いなばのかみ)胤廣を指しています。胤廣は、弟胤光(たねみつ)に鬼怒川(当時は鬼怒・小貝の二川が一つになって流れていた)に面する筒戸城(つくばみらい市筒戸)を与え北の守りを、さらに弟の胤保(たねやす)に常陸川を遡上して来る敵に備えて布施城(柏市布施)に配し、自身は本城の守谷城と出城の高野城(守谷市けやき台)を死守していました。この頃小弓(おゆみ)公方足利義明(よしあき)の古河攻めの軍と戦いがあり、鮎川図書助(ずしょのすけ)が傷を負ったとしています(年不詳「足利高基感状写/『鮎川文書』)。また、『相馬当家系図』に、胤廣は「隣国度々戦争に及び武勇に励む」と補記されています。