「モリヤ」の地名の由来は、守谷市のホームページに二つの伝承を紹介しています。ひとつは日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの地に来た時、欝蒼とした森林が果てしなく広がっているのを見て、「森なる哉(かな)」と嘆賞したそうです、漢訳すると「森哉(もりや)」となり、地名の由来とする説。また、平将門がこの地を築いた時、丘が高く、谷が深かったので、守るに易い谷であるということから、守り易い谷、転じて「守谷」となった説です。しかし、文献上から「守屋」になったのは室町時代の応永二年(一三九五)頃か、「守谷」になったのは江戸時代初期の寛永二十年(一六四三)が始まりです。
守谷地方は、大昔の大宝元年(七〇一)に成立の「大宝律令(たいほうりつりょう)」に、地方行政制度の確立に伴なって下総国と呼ばれる行政区に属する相馬郡が誕生しました。十世紀に成立した『和名類聚抄(わめいるいじゅうしょう)』によれば、九世紀当時の郡郷名が記されていますが、相馬郡は、大井・相馬・布佐・古溝(こみぞ)・意部(おふ)・余戸(あまりべ)の六郷より構成され、郡名は明治初期まで地方の行政区画名として継続しています。
その相馬郡が、十六世紀初頭には、北相馬・中相馬・南相馬の三つの地域に分けられるようになります。現代の守谷市は、平成十四年(二〇〇二)に市制施行され、それまでは茨城県北相馬郡守谷町でした。
中世には守谷地方を呼ぶ場合、二通りあり、一つはソウマ系、もう一つはモリヤ系です。この二系統を古文書で確認しましょう。
(一)ソウマ系
室町時代
天文十六年(一五四七)「今度相馬口之動(はたらき)、除場(のけば)に於いて走り廻り候」(「北条氏康書状」)
弘治二年(一五五六) 「相馬地在所に向かい御動き有るべく候」(「足利義氏書状写」)
永禄五年(一五六二) 「今度相馬之地、若し本意(ほい)に就けば」(「簗田晴助判物写」)
永禄七年(一五六四) 「相馬一跡進(すすめ)候」(「上杉輝虎判物写」)
永禄十年(一五六七) 「相馬一跡并(ならびに)要害」(「北条氏政起請文写」)
永禄十一年(一五六八)「相馬在城之儀」(「足利義氏宛行状写」)
元亀元年(一五七〇) 「相馬遺跡并要害」(「武田信玄起請文写」)
天正十八年(一五九〇)「下総国北相馬庄内徳怡山(とくいざん)長龍寺」(「浅野・木村連署禁制」)
天正十九年(一五九一)「下総国相馬内長龍寺」(「徳川家康朱印状」)
江戸時代
寛永十六年(一六三九)「下総ノ国相馬領野木崎村」(松本藩「野木崎村卯物成割付之事」)
(二)モリヤ系
平安時代
大同元年(八〇六) 「下総国守谷郷牛頭天王(ごずてんのう)守護所」(「八坂神社の神鏡銘文」)
室町時代
応永二年(一三九五)以前「一所、今度刻、野木崎村北相馬守屋入部」(「岩松氏本知行分注文案」)
康正二年(一四五六) 「市河打死、相馬盛屋妙盛」(「本土寺過去帳」)
文正元年(一四六六) 「金杉二郎五郎、盛屋ニテ被打」(「本土寺過去帳」)
文亀三年(一五〇三) 「相馬守屋殿、文亀三年癸亥(きがい/みずのとい)」(「本土寺過去帳」)
大永五年(一五二五) 「相守因幡守、無二に忠信励む候」(「足利高基書状写」)
永禄十年(一五六七) 「森屋地、御座所として進上致すべく候」(「足利義氏書状写」)
永禄十年(一五六七) 「仍(よって)、登城森谷之事、御座所として相左(治胤)進上申され候間」(「芳春院周興書状」)
江戸時代
元和七年(一六二一) 「下総国相馬之郡森谷郷」(「愛宕神社鰐口奉納」)
寛永二十年(一六四三)「守谷領取出(とりで)大鹿村未御割付事」(佐倉藩「取出大鹿村年貢割付状」)
元禄八年(一六九五) 「下総国相馬郡守谷町中惣氏子」(「八坂神社の石灯篭」)
元禄九年(一六九六) 「下総国相馬郡守谷新町」(「長龍寺の庚申塔」)
以上の通りですが、ソウマ系は、戦国時代の武将たちは守谷城を指して相馬要害と呼んでいます。松本藩・佐倉藩の年貢割付状で見る限り、江戸時代初期は、守谷地方を相馬領と呼び、寛永二十年(一六四三)から相馬改め守谷領と呼んでいます。以降、元禄時代からは「守谷」が定着しました。この点からも、中世築城の守谷城の名称は、相馬要害のほうが自然と思います。