中世東国の河川群と地域区分
(出典:市村高男監修『中世東国の内海世界』)※守谷を補記しました
一つめは、鹿島・香取周辺の海域のほか、手賀沼・印旛沼・霞ケ浦・北浦などを合わせた常陸・下総の間に横たわる海域で、「常総の内海」と名付けています。
二つめは、「武総の内海」で、東遷前の利根川水系と東京湾沿岸地域。
三つめは、この二つの内海に挟まれた「繋ぎの地域」で、小貝川・鬼怒川水系の河川流域及び多数の湖沼群が集約され、上野南東部・下野南部から武蔵東部・常陸西部・下総北部にかけて内陸ベルト地帯を形成しているとしています。
この「繋ぎの地域」は、東山道・鎌倉街道下道(しもつみち)を始め、多くの陸路が通過するところであり、古河・関宿・下妻・守谷など、この地域が水陸交通の要衝として政治・経済・文化で、特別の役割を果たしていたことを示しています。
鎌倉公方足利成氏(しげうじ)が、享徳(きょうとく)三年(一四五四)「享徳の大乱」で鎌倉を追われ、古河に本拠(古河市鴻巣)を移したのは、下総国下河辺荘(しもこうべのしょう)(江戸川西岸から古利根川東岸に広がる荘園)の御料所を持っていたほかに、関東に号令する場所として古河が最適と考えていたと思われます。
また、関宿城(野田市関宿三軒家)は、北条氏康に「抑(そもそも)、彼地(関宿城)御手に入り候事は、一国を取られ候にも替えべからず候」(「北条氏康書状」/『喜連川文書』)と、城ひとつで一国に相当すると言わしめたほど、重要な城と認識されていました。
さらに、永禄十年(一五六七)相馬治胤は、北条方との和睦のために守谷城を公方御座所として足利義氏に進上しています。
一時的にせよ、義氏も庇護する北条氏政も守谷城を公方御座所として利用するつもりでした。
このことから従来殆ど歴史上無視されていた守谷城は、政治上、戦略上とも重要な位置にあったと見做すことが出来ます。
義氏は天正十一年(一五八三)一月二十一日に没します。享年四三歳。嫡男の梅千代王丸が早世していたため、古河公方の家臣団は梅千代王丸の姉である氏姫を古河城主として擁立しました。その後、名族の血筋が断絶することを惜しんだ秀吉の計らいで、氏姫は小弓公方であった足利義明の孫・足利國朝と結婚しましたが、國朝が早くに亡くなり、弟の頼氏と再婚して喜連川(きつれがわ)氏を興すことになります。