守谷城主相馬治胤は、この様な状況に加えて簗田晴助が北条氏政と古河城を提供する替りに守谷城の領有を密約したとの情報を得て、直ちに、公方足利義氏の許へ長老を遣わして和議を願い出て、守谷城を義氏に進上する事を条件として六月に北条方と和睦しました。詳しくは「守谷城進上」(p.164)で述べますが、早くも七月には北条方遠山衆の兵が入り、八月には公方義氏の側近芳春院周興(ほうしゅんいんしゅうこう)も入城してきました。早速、工事が始まったのでしょう。工事は治胤が責任者だったようです。しかし十一月に公方義氏から氏政へ「清水曲輪は窮屈である、また警護の武士が不足している」とのクレームが届きます。
翌永禄十一年五月、氏政は義氏の側近に宛て、「此度、古河・相馬御下知の如く、普請等堅固に申付け、帰陣仕り候、」と、公方義氏の命令により、氏政が古河・守谷の普請を堅固に申し付けて帰陣した事を公方義氏に報告するよう書状を出しています。
この文面からは氏政が守谷へ来て、北条家の面目をかけて公方御座所に相応しい城郭にするよう直々に指示して小田原に帰ったと推察できます。相馬要害から拡張強化された守谷城の誕生です。
永禄11年(1568)夏頃の関東勢力図
(黒:北条方 白:反北条方 赤:謙信大敗後に北条方に従属した城)