五、相馬要害から新守谷城の誕生

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 永禄九年(一五六六)三月、上杉謙信は下総臼井城(佐倉市)の攻略に大敗して越後に帰ります。謙信の不敗神話が崩れると共に北条氏の圧力が増し、五月に常陸小田氏治つくば市・下総結城晴朝結城市・下野小山(おやま)秀綱(小山市)・宇都宮広綱(宇都宮市)などが人質を出して北条方に従属してきました。閏八月には、下野皆川俊宗(栃木市)・上野由良成繁(ゆらなりしげ)(太田市)・武蔵成田氏長(行田市)、十一月に上野富岡主税助(ちからのすけ)(群馬県大泉町)、十二月には上杉家の重臣北條(きたじょう)高広(前橋市)・長尾景長(足利市)、また古河公方家宿老簗田晴助(野田市)も従属してきました。翌永禄十年には下総野田景範(かげのり)(茨城県五霞町)・上総土気(とけ)酒井胤治(たねはる)(千葉市)・東金酒井政辰(まさとき)(東金市)などの関東の武将たちが雪崩れを打ったよう北条方に従属してきます(『北条氏政』黒田基樹)。
 守谷城主相馬治胤は、この様な状況に加えて簗田晴助が北条氏政と古河城を提供する替りに守谷城の領有を密約したとの情報を得て、直ちに、公方足利義氏の許へ長老を遣わして和議を願い出て、守谷城を義氏に進上する事を条件として六月に北条方と和睦しました。詳しくは「守谷城進上」(p.164)で述べますが、早くも七月には北条方遠山衆の兵が入り、八月には公方義氏の側近芳春院周興(ほうしゅんいんしゅうこう)も入城してきました。早速、工事が始まったのでしょう。工事は治胤が責任者だったようです。しかし十一月に公方義氏から氏政へ「清水曲輪は窮屈である、また警護の武士が不足している」とのクレームが届きます。
 翌永禄十一年五月、氏政は義氏の側近に宛て、「此度、古河・相馬御下知の如く、普請等堅固に申付け、帰陣仕り候、」と、公方義氏の命令により、氏政が古河・守谷の普請を堅固に申し付けて帰陣した事を公方義氏に報告するよう書状を出しています。
この文面からは氏政が守谷へ来て、北条家の面目をかけて公方御座所に相応しい城郭にするよう直々に指示して小田原に帰ったと推察できます。相馬要害から拡張強化された守谷城の誕生です。

永禄11年(1568)夏頃の関東勢力図
(黒:北条方 白:反北条方 赤:謙信大敗後に北条方に従属した城)