北条流築城術により新守谷城

79 ~ 79 / 330ページ
 今や関東の覇者、北条氏政の直々の号令の下、北条流築城の粋を極めての大規模な増改築工事が始まりました。
 世に知られた北条流築城術は早雲・氏綱・氏康・氏政が歴戦の経験から編み出した工夫と技術を積み重ねて来たものです。従って厳しい戦いによる領土拡大に伴い、小田原本城から遠ざかるに従って優れた構造の城が造られました。専門の技術集団と指導する人材がいて体制を整えていた筈です。また、後述しますが氏政自身が築城に高い見識を持っていたようです。
 相馬要害の改築は①堀を薬研堀(やげんほり)に深くほり関東ローム層の赤土を突き固め滑り易くします。②掘った土で曲輪の土塁を高く積み上げて柵を廻らし、③堀切の三ヶ所に木橋・引橋を架け、④堀底に障子堀をほり、⑤要所に矢倉を設け、⑥尾根の南北を深く削って土橋を造り、⑦柵を廻らし、⑧井戸を掘り、⑨主殿を建て、お茶屋を造り、⑩その他、兵糧庫、武器庫、馬屋、船着き場の整備等々の工事に近隣の農民、武士を総動員して大改修は急がなければならない状況でした。
 永禄十一年から十二年にかけての状況は、甲相駿三国同盟の破棄、今川家の滅亡、武田信玄との戦い、越相同盟、織田信長の上洛など、まさに風雲急を告げる時期でした。
 このような状況のなかで相馬要害は鎌倉時代末期からの素朴な要害から北条流築城術により難攻不落の要害に加え、平地部に御主殿と御茶屋を備える二元構造の名城に生まれ変りました。
それでは北条氏政の面目をかけて誕生した守谷城について詳しく見ることにしましょう。