守谷城の縄張

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 戦国時代の守谷城は「城下地区」・「城内地区」・「城山地区」の三つの地区で構成されている事が下の地形図で理解できます。

守谷城地形図(『守谷城址』(守谷町教育委員会)付図13に彩色・加筆・水色部は当時の内海)

「城下地区」
 旧守谷町として発展した区域で北は守谷駅辺り、南は薬師堂、西は関東鉄道の線路に沿って土塔塚辺り、東は大きく浸食された谷戸で区切られ大手門までです。二本の大きな松が大手門前の南北の土塁上にあり通称二本松と呼ばれていました。薬師堂に塁壁の跡が残っています。総構えの一部でしょうか。
 
「城内地区」
 大手門跡から北東側二五〇メートル清水門跡までの曲輪が「城内地区」になります。平成二年・平成十三年・十九年・二二年に発掘調査が行われ、平成二年の調査では中世の掘立柱建物跡が二六棟確認され家臣の屋敷や倉庫などの城館遺構と推定しています。十五世紀から十六世紀の陶器・磁器・古銭・かわらけ・鉄製造の窯跡などが多数発掘され、溝状(みぞじょう)遺構は大手門から清水門へ現在の道路に沿って掘られていたことが判明しました。
 
①「大手門」の跡は守谷小学校前の西側にあります。
 「文化元年(一八〇四)の古絵図」によると明らかに堀の両岸に土塁の記載があります。堀を挟んで二重の土塁で囲んでいた厳重な防衛ラインであったと考えられます。
土塁の北と南の間は幅広く大手門は大型の城門であったと想像されます。
名目だけとはいえ関東の王者、公方御座所の城郭の正面玄関です。迎える客や攻めてくる寄せ手(よせて)を威圧するに充分な豪勢で堅固な大手門を築いていたと思われます。

①大手門址


大手門跡土塁実測図
(『守谷城址発掘調査報告書』付図3)

②「着到櫓(ちゃくとうやぐら)」大手門の北側土塁の上は平坦で南北六メートル東西三.五メートルあり矢倉台と考えられ、大手門と対応する着到櫓があったと推定しています(『守谷城址』)。
着到櫓は合戦の時に、城に次々と到着する味方の軍勢の馬揃や勢揃などを城主や大将が引見するために、大手門脇などに設けられた矢倉です。
③「桝形虎口」南西隅の窪地にあり「人桝(ひとます)」と地元では伝えています。この下は船着き場であったようです。
④「和田の出口」守谷小学校の裏手、南東隅に近年まで大きな榎があり、当時の守谷城の威勢を謳った早歌が今に伝えています。
⑤「鍛冶工房」平成二年の発掘調査で鉄製造の窯(かま)跡は規模の大きなものであったことが判りました。鉄滓(てっさい)の出土は少ないので製鉄より加工に重点を置いていたと判断されています。
 
「城山地区」
 清水門から台地の東先端までの字名を城山と云い守谷城の中核部分で防衛最終拠点として「詰城(つめのしろ)」の地区です。

永禄11年(1568)頃の守谷城(守谷市観光協会提供)

⑥「清水門」の跡は市道郷州沼崎線を越えた所にあります。土塁が左右に少し残っていますが土地区画整理事業の工事前の西側土塁は全長五五メートル、高さ二.七メートル。南側土塁は全長五八メートル、高さ二メートルとあります。さらに西側土塁の外側は、現在は道路になっていますが、Ⅴ字形の薬研堀跡で全長七十メートル、平均幅十八.五メートルと推測されています。現在は宅地や道路になっていて想像すら出来ませんがこれ程大きな堀があっては城内地区から城山地区に簡単には侵入できません。
⑦「清水曲輪」(江戸期の九左衛門屋敷)は凡そ千弐百坪と古絵図にあり現在は宅地ですが城主や重臣たちの居住地でした。
⑧「御茶屋」地名の小字「御茶屋下」や「御茶屋橋」に名残りがあります。御茶屋は庭園と池、御主殿などがセットで当時のしきたりで格式の高い戦国大名クラスしか設けられません。此の事からも公方御座所に相応しい城郭であったと言えます。
下の図は『守谷城址』が清水門付近の一部と推定としている概念図を彩色して加筆しました。今は道路と宅地化で僅かに土塁が残っています。

清水門付近概念図(『守谷城址』平成8年・に彩色・加筆)

⑨「桝形虎口」同書では清水門の前面には桝形虎口が存在していたと推定しています。「御馬家台(おうまやだい)曲輪の桝形虎口と二の曲輪の桝形虎口の存在を考え合わせると否定できない今後の調査の成果を待ちたい」としています。清水門前の外桝形虎口は道路の下に眠っているかもしれません。
⑩「馬出曲輪」は現在、民家と駐車場とトイレがある場所にありました。前方の寄せ手から陣地が見えないよう土塁を高く盛り上げています。防衛の拠点となり、ここに兵たちが集結し一気にドッと出撃します。また、寄せ手が攻めて来ても大勢では侵入出来ません。そして前後左右の土塁から弓矢・鉄砲で狙撃します。背後の御馬家台曲輪からは清水門周辺の全景が見下ろせ、射程距離は十分です。貴人の城のシンボルである御茶屋と城主や重臣たちの屋敷がある清水曲輪は死守しなければならない重要拠点です。清水門内の防衛の要となっています。

角馬出

内海と堀によって区画された清水曲輪と御馬家台曲輪の間は高低差があり木橋が架けられて、橋の前に馬出曲輪、後に桝形虎口を設けています。