台地を四ケ所、深い掘切で五つの曲輪に分け高く土塁を築いて区画し、それぞれに様々な防衛機能を設けて強固な要塞にしています。当時は曲輪の間は木橋や引橋がありましたが、守谷城が廃城になってから橋も朽ちてしまい、深い堀切りを下り、また登るだけでも難行でした。
江戸中期に斎藤喜内(源蔵吉高)の案内で守谷城を訪れた関宿藩士加藤左次兵衛は曲輪の間を移動するにあたって竹の小笹にすがり苦労した様子が『関宿伝記』(今泉政隣著)に紹介されています。
加えて高い土塁・横矢掛り・桝形虎口・矢倉台・土橋・障子堀・逆茂木などが各曲輪に設けられて、鉄壁の守りを誇っております。
守谷城は当時の北条氏の築城術を極めた最高の技術集団によって増改築されたと言っても過言ではありません。従兄弟で四歳年下の公方足利義氏からのクレームに対して、三十歳になった北条氏四代当主氏政の血気盛んな心意気を感じさせるではありませんか。
⑪「御馬家台(おうまやだい)曲輪」は城塞の最前線に位置しています。清水曲輪や馬出曲輪から見上げる威容は圧倒的です。虎口(出入口)と馬出曲輪とは四~五メートル程の高低差があり木橋が架けられていました。木橋を駆け上がると虎口があり、中には矢倉と内桝形虎口が設けています。古絵図に御馬家台と記載され保存状態は極めて良好です。
内桝形虎口
御馬家台曲輪と二の曲輪間の大堀切の木橋を想定
⑫「矢倉台」は高く物見として城内地区や大手門の先、バンバ通り(馬場・古老の話)から城下地区一帯が見渡せます。矢倉は矢や鉄砲など武器倉庫としての用途の他、なんといっても高い所からの攻撃は威力的です。
⑬「内桝形虎口(うちますがたこぐち)」は木橋取付口より東西十九メートル、南北十七メートル、土塁の高さは一~一.三メートルと『守谷城址』では計測しています。侵入してきた寄せ手が正面の土塁に阻まれ直進できず迷っている所を周囲の土塁や矢倉から攻撃する守りの要(かなめ)となっています。
⑭「土塁」曲輪の北、西側から南側にかけての土塁は西側からの攻撃に備えています。たとえ寄せ手が御馬家台曲輪を占拠しても東縁に土塁はなく標高の高い二の曲輪側からの弓・鉄砲攻撃に晒されて犠牲を強いられます。二の曲輪への木橋は味方が退いたときを見計らって破壊されます。
御馬家台曲輪の防御施設(平成八年『守谷城址』)
⑮「大堀切(おおほりきり)」は御馬家台曲輪と二の曲輪の間にある全長一二〇メートル、最大比高十二メートルもある片薬研堀(かたやげんぼり)です。特に二の曲輪側の崖は急峻で赤土で固められ滑りやすくなっています。鎧などの重い武具を着けていては容易に登れません。
堀を掘った土の量から二の曲輪西縁の防御線の土塁は四メートル程の高さと推定されています(『北相馬郡五城址解説』蔵重一彦)。下のイラストのように、矢倉と高い土塁と横矢掛りから槍・弓矢・鉄砲で狙い撃ちされます。寄せ手たちは堀底から二の曲輪に這い上がることは大きな犠牲を払わされ攻撃を諦めざるを得ません。
⑧大堀切の写真と想定戦闘シーンのイラスト
江戸時代に守谷城址を訪れた三人の文人が異口同音(いくどうおん)に「めくるめく ばかりの深きほりき」と感嘆しています。
永年の放置で雑木や草が生い茂り、日中でも薄暗く人が入らなかった事が幸いしてか保存状態は良好で四百年の時を忘れさせます。今や大堀切は城址探訪の人気コースになっているようです。
「二の曲輪」は凡弐千坪と最も規模が大きく「昔ハ馬場ノ由」と古絵図に記載しています。西の御馬家台曲輪とは大堀切によって区画され、橋台址から平時は木橋で繋がれていました。平成八年の調査では土橋の前に門・矢倉・土塁があったと推定しています。
二の曲輪の西側(『守谷城址』図版p.78に彩色・加筆)
⑯「虎口(こぐち)(出入口)」は三ヶ所あります。北側は坂桝形虎口・帯曲輪を経て船着き場への虎口。南東の虎口は腰曲輪への出入口です。
南の虎口は御馬家台曲輪から木橋を渡り桝形虎口を経ての出入り口ですが、幅が広いので二の曲輪の城門だったようです。
⑰「矢倉」は二ヶ所設置されています。西側の矢倉台は広く、御馬家台曲輪と大堀切と二の曲輪の指揮所だったようです。南側の矢倉は南虎口(城門)の横にあり木橋や南の大堀切に対応しています。
⑱「桝形虎口」は寄せ手が御馬家台曲輪の木橋方向から攻めて来た場合はここで防ぎます。
⑲「坂桝形虎口」は寄せ手が舟で北側の船着き場から攻めてきた時や、また大堀切から回り込んできた時に対応します。三方向の土塁の上から、しかも坂道は狭くて細長く急坂なので逃げ場がなくなります。北条流築城術の傑作で他の城も用いています。
⑳「船着き場」は二の曲輪の北側の帯曲輪につながっています。道路が整備されていなかったこの時代の水運による物流は極めて重要でした。船着き場は他にも妙見曲輪の下・ど鬼怒川小貝川水系により「繋ぎの地域」城内地区の人桝の下・和田の出口の下の三ヶ所にもありました。物資や兵士の移送なから「常総の内海」を経てさらに太平洋へと広範囲に往来していたようです。
万一、寄せ手が船で攻撃して来た時は帯曲輪の崖上と坂桝形虎口によって殲滅します。
㉓帯曲輪と⑱船着き場のイメージ図
㉑「土橋」は二の曲輪と楯形曲輪に続く台地の両側をひと一人が通れる巾を残して、削って造っています。左右の北谷と南谷は深く谷底には逆茂木(さかもぎ)が敷かれ平衡感覚を失い恐怖感を煽ります。戦闘中に破壊出来ませんが、この土橋と楯形曲輪は本曲輪を守るための大きな仕掛りと云えるでしょう。
「井戸」、今は場所の特定はできませんが、江戸期の俳人・櫻井蕉雨、国学者・歌人の清水濱臣が「将門の隠し井戸」として詠んでおり、「本丸とおぼしき所に古井あり、深さ三丈ばかり底に水が見ゆ」と記述しております。
㉒「楯形(たてがた)曲輪」は二の曲輪と土橋によって繋がれています。二の曲輪側からの攻撃に対して土橋と横矢掛りで防ぎます。イラストのように狭い曲輪なので寄せ手は多数では立ち入れず、本曲輪側からの一斉射撃に晒され大打撃を受けます。「詰城」の最終段階での機能を存分に果しています。楯形曲輪と似た曲輪を持つ、小机(こづくえ)城(横浜市小机町)では「つなぎの曲輪」と呼んでいます。
㉒楯形曲輪・㉕本曲輪の攻防想定シーンのイラスト
㉓「横矢掛り」は狭い土橋を恐々渡る寄せ手を横から一人ずつ狙撃します。土塁で防御しつつ、寄せ手を至近距離から確実に仕留める事ができます。
常総地方で初めて鉄砲が使われたのは永禄十二年(一五六九)、小田氏と佐竹氏の筑波山東麓での「手這坂(てばいざか)の戦い」で佐竹勢が三十挺ほどの鉄砲で小田勢を破ったとの説がありますが、北条氏は既に鉄砲の威力や射程距離など充分に承知していた筈です。
㉔「伝障子堀(しょうじぼり)」が楯形曲輪と本曲輪の間にあったと『関宿伝記』に記載されています。障子とは建具の「仕切り」の総称で、空堀の底を掘る時に「仕切り」を残して三メートル前後も掘り下げます。寄せ手は動きを封じられ、上からの集中攻撃に晒される事になります。
㉕「本曲輪」(江戸時代には本丸と云われている)は古絵図には凡千坪とあり北・西・南を土塁で囲んでいました。昭和四〇年代に周囲の沼地を干拓した際の用土の供給で土塁と曲輪全体が六メートルぐらい削平(さくへい)されてしまいました。
残念ながら遺跡発掘調査の対象となり得ません。江戸中期の『関宿伝記(せきやどでんき)』が唯一当時の状況を伝えています。
『関宿伝記』よりの抜粋
「土居の内、七八尺を隔て、障子堀あり、此の道一騎立と唱えよし、此の堀深うして、向こうへ渡るべき便なし、引橋(ひきばし)と名付ける処にて小竹を力に下りて堀の内へ下り、小笹をすがりて向こうへ上る、此処本丸という。二之丸より地形低し、堀の上り口左右に高土居有り、渡り櫓(わたりやぐら)台の跡にや」
㉖「伝引橋」は楯形曲輪との堀切に架かっており、いざという時は橋を引き外します。
楯形曲輪の守り(『守谷城址』図版p.78に彩色・加筆)
㉗「伝渡り櫓台」は本曲輪の高土居に渡して櫓を構え城全体の指揮所として機能していたと思われます。
㉘「妙見曲輪」は平将門公以来の守護神「妙見菩薩」を祀った曲輪です。古絵図には凡そ千五百坪と記載されています。
㉙「腰曲輪」は二の曲輪の南側の下七メートルにあります。平時は警護の武士や小者たちの住まいがあったようです。
㉚「帯曲輪」は二の曲輪の北側の下にあります。船着き場や倉庫などがあり水運が盛んだった頃の荷捌き場と思われます。
城内地区・大手門跡・清水門跡は宅地化されて一部しか残っていませんが、城山地区の深い大堀切と土塁などが当時の威容を残しています。改めて全体を観察すると幾重にも厳重に防御する構造は北条流築城術の粋を極めた城であると驚嘆させられます。
以上のように堅固に防御され、社会生活機能をも満たせる二元構造を持つ当時の新しい守谷城の全体を俯瞰(ふかん)したイラストを次ページに掲げます。この図からは、たとえ大軍に囲まれたとしても、兵糧(ひょうろう)や水は充分に貯えてあり、長期の籠城に耐えることができたでしょう。数日のうちには近辺の味方が後詰(ごづめ)に馳せ参じるネットワークもあり難攻不落の名城であったと言えます。
北条流築城は氏政自身が築城の造詣に深く、ご一家衆や家臣にたいして城普請の細部まで指示を出したり、家臣岡本越前守に宛てた書状では「時と場合に応じて普請内容を考える」ことを指示していました。また宿老筆頭松田憲秀への書状では「土塁の構築に関して、銘々で構築すると必ず合わせ目が崩れることになるから、二十五人を一組にして構築させるように」と非常に具体的に指示を与えていることからも判ります(『北条氏政』黒田基樹)。
永禄十一年(一五六八)八月に関宿城の簗田晴助・持助親子は再び北条家を離反して上杉方に就いたので守谷領についての氏政との密約は反古になりました。結局、公方義氏は越相同盟の成立で古河城に入り守谷城には入城しませんでした。しばらくは北条方の番衆が管理していたようですが、やがて治胤に返却されたようです(『古河公方家臣下総相馬氏に関する一考察』。鍛代(きたい)敏雄)
永禄11年(1568)頃の守谷城想定イラスト(守谷市観光協会提供)
赤松宗旦著『利根川図志』は守谷城全盛の時に唄われた早歌「和田のでぐち」を紹介しています。
♪「和田のでぐちのごほえの木、本は稲村、葉は寺田、花は守谷の城に咲く、城に余りて町に咲く」。
注「ごほえの木」大きく立派な榎の意、また五本の木との説もある。
宗旦のメモ帳である『笏記(しゃっき)』には「安政元年(一八五四)十二月十二日、野田市桐ケ崎村の眼科医で「鳳梧」と云う人を訪ねて、「ワドノ出口ノ。ゴホエヌキ。花ハイナムラハワタカダ。・・・」の唄をうたふて、おとりを踊る。是は守谷平ノ将門時分のうたなりとぞ」(『評伝赤松宗旦』川名登)とあります。
守谷城の最盛期を謳ったこの早歌は幕末まで随分と遠くの人にも知られて「唄と踊り」が伝わっていたようです。