①文正元年(一四六六)「金杉二郎五郎盛屋ニテ被打」(本土寺過去帳)。応仁の乱の前、関東では享徳の乱(足利成氏と管領上杉氏の争い)の最中です。守谷で戦いがあったと推定されます。金杉氏は船橋近辺の領主で千葉氏に属していました。
②天文十六年(一五四七)閏七月、「河越夜戦」の翌年、相馬氏は足利晴氏に与した十八代胤晴が討死し、十九代整胤は幼少と見て北条氏康の命で江戸衆の桜井某、興津神二郎らが「相馬口」に押し寄せてきました(北条氏康書状)。相馬口とは、相馬の入口と解釈すると、柏市布施の「七里ケ渡」までで、旧常陸川の手前でしょうか。布施城については伝わっておりません。この戦いで小田原方の桜井某、興津神二郎は氏康から感状を受けていますので相馬氏は苦戦したと思われます。
③弘治二年(一五五六)カ「今度、相馬家中の仕合わせ、是非無き題目に候、梁田中務大輔(なかつかさのたいふ)(晴助)に御勢を遣わす事、仰せ付けられ候、速かに一勢立ち進じ候はば、感悦たるべく候」(足利義氏書状写)。「相馬地在所に向い御動き有るべく候」(足利義氏書状写)。この頃相馬家で内紛があり関宿城主の簗田晴助が大将として押し寄せてきました。
④永禄五年(一五六二)正月一三日、簗田晴助の相馬領侵犯の野望は根強く、家臣の鮎川図書助(ずしょのすけ)宛「簗田晴助感状写」/『秋葉家模写文書』に、「今度目吹の城の攻略、粉骨抽んでて走廻の条、いよいよ忠信励むべく候、謹言」と相馬領の目吹城(野田市目吹)を攻めてきました。また、同年四月二二日、家臣の石山隼人佐宛「簗田晴助判物写」(『下総旧事考』)に、「今度相馬の地、若し本意に就けば、佐賀主水抱えの知行分、相違有るべからず候、いよいよ以って忠信励むべき者也、仍て件の如し」と書状で約束し督戦しています。
⑤天正二年(一五七四)六月、「総州相馬の地に向い干戈を遂げられ」(東義久書状)。相馬氏は北条氏に与したため佐竹氏から攻撃を受けました(東義久から上杉謙信への書状)。
⑥天正十二年(一五八四)九月、「今度佐竹向表相動處防戦堅固之故、早速敵退散」(北条氏直書状)。高井胤永(相馬治胤の弟)は佐竹方の相馬表への襲来に堅固な防戦をしたとの感状と包永(かねなが)の刀と三種一荷を北条氏直から拝領しました。