常総地方の戦記物として『東国闘戦見聞私記』と『東国戦記実録』があります。従来戦記物は誇張や誤りが多く信頼性が薄いとして歴史家から敬遠されています。しかし史料が乏しいこの地域に於いては両書とも時代人名などの誤りはあるにせよ多くの人名と地名が記載されており、当時の貴重な文献として評価されるべきと考えます。
特に人名は地方史研究のトリガーとしての価値がありますので紙幅と労を厭わず、あえて両書から守谷城に関する記事を要約しました。
①「筒戸合戦附本田越中弓勢ノ事」この戦いの記録は諸説あります。『多賀谷七代記』は天正元年説、『関八州古戦録』では天正二年説、『東国闘戦見聞私記』・『東国戦記実録』は天正四年説、なんと、『守谷町史』は天正五年説です。
天正三年(一五七五)九月、下妻城(下妻市)の多賀谷政経重経親子は豊田城主(常総市石下)豊田治親を家臣に謀殺させて乗っ取り、後方の憂いを払って、天正四年、古間木(ふるまぎ)城主(常総市古間木)渡邊周防守を攻略し、続けて弓田(ゆだ)城主(坂東市弓田)染谷民部、菅生(すがお)城主(常総市菅生町)横瀬尾張守、天神城(常総市大生郷町)を攻め落とし破竹の勢いで南下してきます。水海道(みつかいどう)城主(常総市水海道橋本町)田村弾正は秋葉縫之介、富村三河守、松信主水、五木田卯女之介らと評定し降参します。多賀谷勢はこれらの降った将兵を先手に加えて筒戸城(つくばみらい市筒戸)へ押し寄せてきました。
『東国闘戦見聞私記』の「全洞、敗軍並びに北条氏尭(うじたか)、軍勢を催す」及び『東国戦記実録』より、抜粋してご紹介します。
筒戸合戦・・・・多賀谷勢が天神城を落城させ、余勢を駆って鉾先を守谷城に向けて攻撃して来た時の合戦談です。場所は、現、玉台橋の上流三〇〇メートル、もと玉台の渡しが在った処(つくばみらい市小絹)です。当時、大生郷天満宮から守谷へ入るには、沼沢地帯を渡るため「鹿小路(かなこうじ)の渡し」か「玉台の渡し」で渡船するしか方法がありませんでした。なお、本文中に石橋が在ったと記されていますが何処にあったか不明です。江戸時代、交通繁多な水戸街道でさえ、土橋が多いのに、守谷に石橋があったとは驚きです。
「爰(ここ)に白井全洞(ぜんどう)(多賀谷勢の猛将)は内守谷より古谷沼、鹿子内(かなこない)を渡す浅間権現(つくばみらい市小絹)の前へ打ち出るに、横瀬弾正(筒戸城勢)之(これ)を見て全洞多数を以て浅間まで押来ると注進す、相馬求馬(きゅうま)(筒戸城主)と本田は大いに驚き本田越中(えっちゅう)(筒戸城の重臣)を呼び菜如(なにょ)せんと議す。
越中申しけるは某(それがし)防矢すべしと申す鹿毛(かげ)の馬に乗り大太刀帯し三人張りの重籐(しげとう)の弓に、二十四差たる鷲の羽の矢を負て十騎計(ばか)り打出たり、向ふを見てあれば浅間の鳥居の前に全洞人馬に息をつかせ控えける、本田見より駆けて向ふに全洞も早く之を見て弓と矢を番(つがえ)て兵を射けるに、本田も名ある手練者にて太刀を抜きて身を沈めて其矢を切折たり。
本田大声に下妻の人々は敵を射る法は不案内と見えたり、今のせめて返答に一矢参らせんと引き堅め放しけるが、全洞運や強がりけん其矢全洞か兜の星を射いて後なる松の木に沓巻せめて立ける、敵を射る法は知らざらんける。下妻方懀(わい)とや思ひけん、岡田郡の面々は敵を射る法多勢は知らざらん、是は松の木なるものを敵は爰にるぞよと箙(えびら)(矢を入れて負う道具))を叩き一同にドット笑う、本田安からず思い差し詰め引き詰めて散々に射る、元来精兵の者にて一矢に二人三人射倒されて時の間に手負い死人三十人に及びける、全洞大いに怒りて敵は鬼神にもあれ小勢なり取込めて討つや討つやと真っ先に進む。
相馬・横瀬・此沼・平木・平沼・斎藤の人々と二百騎計り駆け出す、全洞は目に余る大勢なれば、城方遂に戦い負けて引き退く、全洞得たりと追い掛ける、筒戸方敵を石橋に支へて急を守谷へと告げたり、氏堯三千騎一手になして駆けたり、全洞も戦い疲れて守谷の新手に切り立てられ、遂に敗軍し水海道に引き返す。」
②「天正四年頃、北条氏堯、軍勢を催す事」(『東国闘戦見聞私記』/「巻之十七全洞、敗軍并に北条氏堯軍勢を催す事」)
「北条氏堯は相馬小次郎、同大蔵を始め大将を召して評定しけるは、味方の面々へ廻文を出して多勢の武将を守谷城に集めました。常陸・武蔵・相模・上野・下野の面々、その催促に随うて北条家に心寄せ多賀谷を拒む面々は、大将・平侍・郷士・地侍・農民、吾も吾と馳来るに、班々の輩は記すに及ばず、その勢、都合三万八千余、といいます。
この数大変誇張がありますが、その氏名は北条方の戦力を知る上で、大変参考になります。
当時の守谷城は、北条氏政により、公方御座所として増改築されたばかりの堂々たる城郭でしたので守谷城へ全員集合した北条方武将名を見てみますと、天正初期の北条氏政の版図(はんと)に重なります。この地域に根差した郷士の名前は、このような読み物しか出て来ません。この守谷城集結場面は、守谷市民にとっては空前絶後のハイライトです。
守谷城に集まった武将たちを次に掲げます。
「高城兵庫守(小金城主)、綿貫大學、駒木根宮内、同四郎、高柳監物、同九郎、日暮内膳、同四郎、中妻長門、日暮□膳、同七朗、豊島紀伊守(布川城主)、同日向、地分将監、矢口権三郎、同若狭、松田彦九郎、立木滔々見、香取大膳、同十郎、同彦四郎、大谷和泉、立木九郎、同左内、山崎図書、海老原伊勢、山崎七郎、同内匠、土岐伊勢守、同大膳(龍ヶ崎城主)、同河内、津田三四郎、鈴木九郎、同采女、根本九郎、泉塚唯七、同四郎、松田彦四郎、同六郎、諸岡逸羽、中城大助、諸岡弥左衛門、同弥助、木田余善助、中島士郎、同内膳、同與七、倉山右近、同八郎、杉田次郎、同三左衛門、梅沢右近、同八兵衛、同大学、鈴木藤左衛門、同勢之助、大徳勘太夫、同與四郎、師岡長門、、大徳次郎、桂左京、同九郎兵衛、大野玄蕃、菅谷左衛門、同次郎、菅谷左衛門、同次郎、菅谷九左衛門、毛野弥四郎、同弥五郎、坂田與八郎、常名七郎兵衛、大塚弥左衛門、毛野弥七郎、中根主膳、同藤内、稲石與助、同半右衛門、志津久監物、沖宿将監、戸崎大内蔵、中根藤兵衛、松塚兵衛、佐野小十郎、佐野六郎、倉持金左衛門、同喜六郎、中村刑部、小松弥二右衛門、長岡惣八、松塚與左衛門、赤塚次郎、岡野六郎兵衛、桜井久米右衛門、館野千助、杉山宮内、野口備前、内田刑部、荒川甚八郎、石引主膳、岡部半弥、岡見中務少輔(足高城主)、同主殿(谷田部城主)、同弥次郎、同武右衛門、岡見治部太輔(牛久城主)が陣代として栗林治部、由良信濃守が陣代として小金井四郎左衛門、由良太夫、大堂左京、同弥太郎、同八郎、桜井土佐、同新左衛門、同七郎、入江善兵衛、金子與左衛門、岩瀬木工兵衛、金子五左衛門、同右京、栗林六郎,浜野平太夫、同宮内、同次郎、同市郎、廣岡喜左衛門、長岡備前、高津長右衛門、里見左馬、寺田佐渡、同求馬、同大膳、同八左衛門、同土佐、堀口美濃、篠塚十郎平、直井和泉、同兵庫、同刑部、同修理、同彦六、同彦七、野口豊前、野口内記、同新左衛門、同唯七、畑九郎左衛門、小磯勘太夫、畑新右衛門、同與惣治、同図書、小磯茂兵衛、同土佐、中山伊賀、同主水、矢作丹波、同五郎左衛門、同與十郎、同喜右衛門、吉瀬助太夫,中山弥兵衛、同弥五右衛門、同平左衛門、同與八、同與助、宍戸喜太夫、飯島帯刀、同彦左衛門、同彦次郎、同孫兵衛、小泉式部、小泉弥五郎、同八衛門、同彦八、吉葉伊勢、同與左衛門、同與五郎、同又八、横張太左衛門、朝比奈民部、平沼主計、同掃部、斎藤因幡、同十郎、同藤兵衛、沼尻又五郎、同又次郎、同又十郎、同又三郎、同又四郎、同治右衛門、同治兵衛、佐藤十次郎、同又八郎、色川伊勢、同藤九郎、同惣内、同段助、同定七郎、同三郎兵衛、同惣兵衛、福田豊後、同兵助、横田加賀、同伝五郎、同四郎、同五衛門、中澤弥左衛門、同弥八、高柳弥次郎、同丹後、同文五、今川織部、同藤次郎、同弥次郎、同八郎次、木村源次郎、同兵庫、同隼人、栗林左京、同主税、木村但馬、同八郎、同三河、木村五郎、同刑部、飯島尾張、同土佐、大山備前、同宗三郎、同大蔵、同七郎、片見因幡、桑原若狭、桑原兵衛門、同源左衛門、青柳出雲、同藤七郎、同半次郎、中島逸甫、中島勘左衛門、同喜助、吉田因幡、吉田兵助、同嘉左衛門、平元主膳、同太郎、同弥八郎、同弥作、同土佐、高谷但馬、同大膳、同弥兵衛、大角豆吉左衛門、同弥三郎、横瀬能登、同加賀、泉伊勢、横瀬民部、唯越隼人、同尾張、山下修理、大澤美濃、本田越中(守谷勢)、同豊前、相馬小四郎(守谷城主)、同求馬(筒戸城主)、同小四郎、本田佐左衛門、同弥十郎、同八郎、同四郎、高井十郎(高井城主/相馬胤永)、同民部、同彦次郎、同左京、眞似山出雲、同弾正、同兵庫、椎名佐渡、八木弥左衛門、椎名八郎、同弥左衛門、斎藤九郎、横瀬治部、同四郎、同弥兵衛、小波内膳、同十右衛門、同勘兵衛、同宗右衛門、石川主水、石川與吉、同唯七、同小左衛門、同八郎左衛門、同傳助、藤沢帯刀、小神野弥兵衛、同四郎左衛門、萱場備後、同藤五郎、同清次郎、飯塚右馬助、同清左衛門、飯泉喜太夫、同與左衛門、菱沼綾部、同弾正、真鍋長蔵、中川半左衛門、赤根大蔵、鴻巣弥太夫、片岡長左衛門、片岡掃部、鴻巣唯七、同九助、星野左衛門、星名助市、同次郎、宮本左馬助、宮本隼人、飯泉周防、小川内記、其の外に、飯田、飯島、木口,川田、木村、木内、野口を始めとして、常・武・相・上野・下野の面々其の催促に馳来るに、筆取(受付係)三人昼夜三日の内は休むる暇なし、彼是凡そ六百四十八人班々の輩は記すに及ばず、其の勢都合三万八千余兵、守谷・筒戸に充満して錐(きり)を立てる地もなく、戸頭川に船を浮かべて船上に充々たり夥(おびただ)しかりし形勢也。
この時、北条氏堯は既に没しており、この地域の司令官としては、逆井城主(坂東市逆井)北条氏繁の誤りカ。
③「足高の諸将勇戦の事附由良信濃守足高へ援兵の事並守谷城を助る事」(『東国闘戦見聞私記』・『東国戦記実録』)
天正十五年(一五八七)十二月二十三日、下妻多賀谷勢の渡邊播磨と石塚左京が三〇〇〇騎で守谷城に攻めてきました。
城中でも待ち構えて矢倉より弓鉄砲を撃ち出し、本多越中・高井民部・椎名佐渡・斎藤主計など三〇〇騎が大手門を押し開き討て出敵陣へ会釈もなく突て掛る敵味方入乱れ戦ひける此城三方沼にして唯一方口なれば脇より攻寄るべき便りなく・・・下妻勢は大軍と雖も追い捲られ土塔塚まで引き退く・・・。
④「下妻勢攻める筒戸城の事」(『関八州古戦録』・『多賀谷七代記』)
天正十七年(一五八九)七月、守谷城の相馬治胤は高井城の胤永と筒戸城の胤親を守谷城に招いて兄弟の酒宴を開いていたが、そろそろ、多賀谷は鉾先を守谷に向けるかもしれないと案じていた矢先、多賀谷勢の智将白井全洞を大将として百五十騎が、筒戸城を襲って来ました。この合戦の次第は、『多賀谷七代記』の「下妻勢攻筒戸城事」や『関八州古戦録』の「相馬左近大夫与白井全洞執合事」に詳しく記されています。
全洞は、坂手村の樋内台(常総市坂手町樋ノ口)と云う所に軍を進め、そこで深泥に踏み込んだとしています。筒戸城では相馬胤親並びに家人の本田越前守・川口播磨守らが城を出て防戦します。急を告げられ守谷城から駆け付けた横田民部少輔が横合いから攻めたため、全洞は坂手村まで敗走しました。翌日、さらに、治胤は夜襲を命じます。日の暮れる頃、横田は弓の名手十余人を選び、長谷川藤蔵を副え、板戸井南の小松原に潜ませました。雨降る夜明け前、横田民部は五十騎で、鐘や太鼓を鳴らして白井勢の野陣を急襲しました。そこに長谷川勢から矢を雨霰の如く射かけたから堪らず、白井勢は総崩れして下妻へ逃げ帰りました。
全洞は矢傷十四ケ所を蒙り、以降、面目を失い、出仕を止めたといいます。
破竹の勢いの多賀谷勢も、守谷城を一目瞭然で合戦を避けて来たのでしょうか。相馬治胤以下の将門伝来の強者揃いの相馬氏と難攻不落の守谷城の攻略は犠牲が多過ぎると判断したお蔭でしょうか。