『東国闘戦見聞私記』の世界

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 『東国闘戦見聞私記』の原本は、赤松宗旦著の『利根川図志』の凡例に記載されています。
「『東国戦記』元禄年間の作という、伊能頴則(いのうひでのり)いわく、この書は下妻多賀谷浪人某、下総国相馬郡河原代(かわらしろ)村(龍ヶ崎市川原代町)に居て著せる所なり、同一本(廿五巻)、一名『常総軍記』といふ、常陸国河内郡岡見(つくばみらい市岡見)の旧臣松好庵、相馬郡大房村(常総市大房カ)にて前書を補訂せる者なり。」とあり、宗旦は『利根川図志』に『東国戦記』と『常総軍記』を断片的に引用しています。
 岩波文庫版『利根川図志』の校訂者の柳田國男(民俗学者)は、解題で『常総軍記』あるいは『東国軍記』といふ一書は、これは誠に愉快な本であって、およそ、土地の人々がこうであったら面白かろうと思うようなことが、皆その通りに歴史として書いてある。布川(茨城県利根町)の周囲十数里の村の名を、苗字にした勇士が入り交って戦いをしている。『常総軍記』は、多分その密かな口碑(こうひ)を足掛かりとして、際限も無く展開させていった夢物語だったのである。いかに近世までの関東の田舎が、文献に飢えていたかはこれからも推し測られる。と酷評しています。これらの補訂版として、吉原格斎校訂の『東国闘戦見聞私記』と、つくばみらい市足高の住人小菅與四郎の『東国戦記実録』があります。
 『東国闘戦見聞私記』の著者は、皆川老甫(皆川広照(ひろてる))の口述を大道寺友山(だいどうじゆうざん)(江戸中期の兵学者)が筆録し、この書を譲与された講釈師神田貞興が補訂し、全四十巻に改編したと伝えられています。
 明治四十年(一九〇七)、石下町(常総市)の吉原格斎が校訂を行い出版しました。下野皆川城主(栃木市)皆川広照は、「小田原合戦」で籠城していましたが、いち早く投降して、その後、結城秀康の家老になり、信州飯田七万五千石を貰います。秀康が失脚すると浪人となり、将軍家光に召し出され、話相手役を勤めました。その時の「戦場談」が、この本の基になっていると伝えています。
 
 『東国戦記実録』は、明治四十一年(一九〇八)、足高の小菅與四郎が『東国戦記』を世に伝えたいと出版しました。
 いずれも、極端に史料の少ないこの地域の史実について考証したもので、村名や地名さらには登場人物名が豊富に記され、この地方の戦国史を語る貴重な資料となっています。P.96に出てくる「鹿子内の渡し」などは、近世、関東代官頭伊奈忠治による鬼怒川の付替以前からの湖沼地帯で鬼怒川の洪水時、細代・寺畑(つくばみらい市)の台地を乗り越え流れていた証明になります。