七、守谷城の今昔

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 写真は大正中期。「守谷小学校が移転される前、大手門址前の二本松。あたりに家はなく、桑畑が広がっていた。松は昭和五十五年(一九八〇)ごろ枯れ死した」(『守谷わがふるさと』)。「二株の巨松が両側の土塁の上から中央通路に蓋(おお)いかぶさって蒼緑の枝を垂れている」(『改訂増補守谷志』)。
松もさることながら土塁が中央の人物の背丈より高いのに驚かされます。

守谷城址の二本松・大手門付近
(『守谷わがふるさと』守谷町)

 鎌倉時代の奥州合戦から戦国時代まで、相馬氏が関わったと思われる政変と戦いを書き出しました。
「奥州合戦・比企能員(ひきよしかず)の変・元久(げんきゅう)の乱(畠山重忠の乱)・和田合戦・承久(じょうきゅう)の乱・宝治(ほうじ)合戦・霜月騒動(しもつきそうどう)・元弘(げんこう)の乱・南北朝の戦い・上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱・永享(えいきょう)の乱・結城(ゆうき)合戦・享徳(きょうとく)の乱・戦国時代」と相次ぐ政変と戦乱の世を歴代の当主たちは良くぞ戦い、生き抜いて来たものです。
 守谷城址は素朴な相馬要害、永禄十一年(一五六八)の新しい守谷城の誕生、小田原合戦での豊臣方の接収、江戸初期の守谷藩から天和元年の廃藩と関宿藩への編入と波乱の歴史を秘めていま静かに佇んでいます。