古河公方足利義氏の書状の写し(『豊前氏古文書抄』静嘉堂文庫所蔵)
①永禄十年(一五六七)十一月四日、古河公方義氏より、豊前山城守宛に
「公方御座所としては相馬要害(守谷城)が窮屈なので北条氏康・氏政に相談するよう、又この事を城主の相馬治胤に申し伝えるよう」書状が出されました。
翻刻
豊前山城守殿 義氏
景虎出張付而、急度注進、御悦喜候、然者、佐野小太郎其外去廿七藤岡へ取際候、大導寺以下同時ニ岩付へ引除之由無是非次第候、依之氏政可参向之由被申越候歟、肝要候、如申上候、相馬之儀万事御窮窟思召候、仕置之様躰氏康・氏政へ可有御談合候、相馬左近大夫申し候、急度可被仰出候、清光曲輪踞居之儀、先番衆も同前申上候キ、雖然番衆不足之間にて不被仰出候、是又左近大夫方へ可被仰付候様小田原筋へ相勤付而者、無構之地ニ候、氏治可為劬労由、御識察候、近日、本間左衛門佐可罷帰候間、様躰御懇切被仰出候、其時分其方能々可申遣候、曲時分煩気無兇思召候、如何様ニも致養性参上尤候、氏政返礼、其外有御披見被返遣候、 かしく
霜月四日
豊前山城守殿 義氏
読み下し
景虎上杉謙信出張(でばり)(出陣)に付きて、急度(きっと)注進す、御悦喜に候、然らば、佐野小太郎(佐野昌綱(まさつな)・唐沢山城・佐野市富士町)其の外、去る二十七日、藤岡(栃木市)へ取り際め候、大道寺(だいどうじ)(駿河守政繫(まさしげ)・河越城主)以下同時に岩付(岩槻市)へ取り除く由、是非無き次第に候、これに依り、氏政参向すべき由申し越され候か、肝要に候、申し上げ如く候、相馬の儀、万事御窮窟(ごきゅうくつ)に思し召し候、仕置の様躰(ようだい)、氏康、氏政へ御談合有るべく候、相馬左近大夫(治胤)方へ急度仰せ出さるべく候、清水(光※)曲輪踞居の儀、先番衆も同前に申し上げ候き、然ると雖も番衆不足の間にて仰せ出されず候、是又、左近大夫方へ仰せつけらるべく候、次いで小田原筋へ相勤むに付いては、構(かまえ)無く地に候、氏治(小田氏治)劬労(くろう)たるべく由、御識察に候、近日、本間左衛門佐(さえもんのすけ)(義氏家臣)罷り帰るべく候間、様躰御親切に仰せ出され候、其の時分、其の方能々(よくよく)申し遣わすべく候、曲(まがり)の時分気を煩(わずら)い覚え兇(おそ)れる無く思し召し候、如何様にも養性致し参上尤もに候、氏政返礼、その外御披見有りて返し遣わされ候、 かしく
十一月四日
豊前山城守殿 義氏
解説
当史料で興味深い点は二つ、①義氏は書状で高貴な身分の方が自身に対して敬語をつける「自敬表現」を使っています。
②義氏の家臣本間氏や豊前氏らが、上野・下野南部や武蔵北部の武家の動静を探り、鎌倉葛西谷(かさいがやつ)(鎌倉市小町)に滞在していた義氏に報告して、なおかつ、北条方へ通じていた処にあります。古河公方足利義氏は、天文末期から永禄元年(一五五八)に下総葛西城(東京都葛西区青戸/出典「葛西城と古河公方足利義氏」・『葛飾区郷土と天文の博物館』編)、さらに関宿城に移座します。しかし永禄三年、上杉謙信の越山に与した宿老の簗田晴助に攻められて関宿城を離れます。その後、北条氏配下の小金城(松戸市小金)・佐貫城(富津市)へ移座、永禄七年(一五六四)には鎌倉葛西谷へ戻り、永禄十二年(一五六九)古河城に入ります。
②永禄十一年(一五六八)五月、北条氏政は、守谷城と古河城の二城を普請堅固に申し付けて、小田原に帰陣したと公方義氏に報告するよう奏者に書状を出しています。(『豊前氏古文書抄』)。
北条氏政の書状の写し(『豊前氏古文書抄』静嘉堂文庫所蔵)
翻刻
進上 御奏者 左京太夫氏政
此度古河・相馬如御下
知、普請等堅固ニ申付、帰陣
仕候、委細豊前山城守言上
可申候、随而網戸一跡豊前
山城守ニ被任下由、存其
旨候、尤上意次第、於拙者
可然奏存候、此旨可預御披
露候、恐惶謹言
五月廿六日 左京太夫氏政 花押
進上 御奏者
ここで注目したいのは、北条一族の当主である北条氏政が、古河公方に対して最大限の書札礼の厚礼(こうれい)を尽くしていることです。
①上所(じょうしょ・あげどころ)(進上)
②脇付(わきづけ)(御奏者)
③書止文言(かきとめもんごん)(恐惶謹言)
④日下(にっか)(署名・花押)
読み下し
進上(しんじょう) 御奏者 左京太夫氏政
此度古河・相馬御下知(おんげじ・ち)の如く、普請等堅固に申し付けて、帰陣仕り(きじんつかまつり)候、委細(いさい)豊前山城守言上(ごんじょう)申すべく候、随って網戸(あじと)一跡豊前山城守に任せ下さる由、其の旨を存じ候、尤も上意次第、拙者に於いては然るべく存じ奉り候、此の旨御披露に預かるべく候、恐惶謹言(きうこうきんげん)、
五月廿六日 左京太夫氏政 花押影
進上 御奏者
解説
義氏は家臣の豊前山城守からの謙信出陣の報告に対して労(ねぎら)い、既に守谷城に入っていた芳春院周興から守谷城が窮屈で番士が不足しているとの報告を受けていたので、北条氏康・氏政に相談するよう指示しました。
「上杉謙信が出陣してきたと、いち早く知らせてくれた事を喜んでいます。唐沢山城の佐野小太郎昌綱らが去る二十七日藤岡城(栃木市藤岡)へ入ったようです。大道寺政繫たちが(謙信の南下に備えて)岩槻城に入ったことは、やむを得ないことでしょう。これによって氏政が出陣すると申しているようですが大事なことです。
先に申したように、相馬(守谷城)は万事窮屈と思っています。その状況を氏康・氏政に相談して下さい。相馬左近大夫治胤へも必ず申付けるよう伝えて下さい。清水曲輪の踞居(狭い住まい)についても、殿居(とのい)の侍たちも同様です。警護の武士が不足していることも伝えて下さい。また、この事も必ず相馬左近大夫治胤へ申付けるよう伝えて下さい。小田原へ勤めるについては問題ないでしょう。氏治(小田氏治)の苦労は良くわかっています。近日家臣の本間左衛門佐が帰ってきますので状況を良く話して下さい。その節は能々(よくよく)申付けて下さい。大変な時節柄ですが気の煩いや恐れる事も無いと思います。
養生しての参上は尤もです。氏政の返礼の書状は拝見しました。その外も拝見したので書状を戻します。 かしく」
豊前山城守が何時頃、小田原にきて氏康・氏政に相談したのか、またいつ氏政が守谷に来たのかは記録が無く不明です。
しかし、永禄十一年五月二十六日付のこの書状で氏政が守谷に来て城の普請について直接に指導したことが分かります。
「この度、御下知にしたがい古河城・守谷城の普請を堅固にするよう申し付けて小田原に帰陣しました。詳しくは豊前山城守からご報告申し上げます。
網戸(あじと)(栃木県小山市網戸)の領地を豊前山城守に与えられるとの事、その旨は承知しております。公方様のお考え次第でよろしいと私は思っております。その旨を公方様に申し上げて下さい。 おそれつつしんで申しあげます」
足利義氏の奏者に宛てた北条氏政の書状で、古河城と相馬氏が進上した守谷城の普請を堅固にさせたことと、義氏が豊前山城守の永年の功労を賞して野田氏の領地「網戸一跡」(網戸氏の旧領、栃木県小山市網戸/この地は元々栗橋城(茨城県五霞村元栗橋)の野田氏の領地でした)を宛行(あてが)う事を承知しています。氏政は公方義氏を敬ってはいますが実権は北条氏にあったことが明らかです。
豊前山城守は公方家に医術で仕え義氏の母芳春院の病を治して氏康・氏政や義氏からの信頼を得て公方家奏者となります。永禄十二年(一九六九)十月の武田信玄と北条氏の三増峠(みませとうげ)の戦いで、豊前山城守は北条氏照に与力して討死しています。
※ 義氏の書状では「清光曲輪」になっていますが、清水門・清水川などから「清水曲輪」が正しいと推定し本書では清水曲輪として表記しました。