室町時代の戦国大名と国衆の格付けは、主に次の五つで格付けされます。
①軍事力 ②、書札礼(しょさつれい) ③かわらけ ④庭園 ⑤陶磁器
①軍事力は、戦争時の動員数でランクされます。「小田原戦争」時の北条氏側の全戦力数を見て見ますと、豊臣方の『毛利家文書』によれば、当主の北条氏直 馬廻七百騎、氏政 馬廻五百騎、北条氏照 四千五百騎、同氏邦 五千騎、同氏規 五百騎、大道寺政繁 千五百騎、松田憲秀父子 千五百騎、氏直分国惣人数 三万四千二百五十騎。一方、北条方の資料『北条五代』によると、徳川家康軍 三万騎、北陸軍 三万五千騎、水軍 一万四千人、合計二二万余、それに 豊臣秀吉 三万二千騎が加わりました。秀吉の負けない戦争です。また、常陸の佐竹氏はおよそ五千騎、小田氏が三千騎、結城氏が三千騎、千葉氏・原氏で五千騎です(『佐倉市史研究第十三号』小野正敏氏論文)。下総相馬氏は百騎です(『同毛利家文書』)。
②書札礼は、当時者同士の格付け関係が理解できます。相馬氏クラスの国衆は、関東のAクラスの古河公方やBクラスの関東管領上杉氏と足利一族に、直接手紙を出せません。かわりに、奏者という用件や手紙を取り次ぐ人を仲立ちとし、手紙を差し上げる形式しか取れない状況でした。上杉謙信宛相馬治胤書状の宛先は「御旗本人々御中」です。また、古河公方足利義氏宛書状の宛先は「芳春院・一源御侍者中」です。北条氏政も義氏への直接の書状ははばかり「進上御奏者」と奏者宛にしています。
③かわらけは、守谷城址からはロクロ式だけで、京都風の「手づくねかわらけ」は発掘されませんでした。小田原城は「手づくねかわらけ」が発掘されております。房総で出て来ますのは、すべてロクロで制作されたかわらけです。常陸の小田城では、十四世紀頃までの古い時代は「手づくね」が出ていますが、戦国時代はロクロ製に変わっています。京都の将軍と同じものを使うということが重要になってくるのです。
④庭園は、小田原城・千葉氏の本佐倉城で発掘されています。守谷城は江戸時代の古城図に、「御茶屋」が記載されています。守谷市の小字図に「御茶屋下」があり、古城川に架かる橋の名前は「御茶屋橋」です。御茶屋の存在を裏付けています。客人をもてなす「会所」と「茶室」と「庭園」はセットですので、守谷城も公方義氏の御座所として当然在ったと思われます。
⑥陶磁器では、朝倉館のような大名クラスの館からは、中国製の美術陶器が多く出てきます。小田原城からも中国産染付け皿が出土しています。守谷城からも、陶器・磁器が発掘されていますが、ここで論じているレベルではないでしょう。
客を迎えた時、どれだけ自分が良いものを持っているかが権力者にとっては大変重要でした。