そして、その後に「夷戎(いじゅう)の類(たぐい)その威勢を恐れず」とあります。いまだ、京の貴族は東国武士たちを東夷(あずまえびす)、つまり野蛮人と呼んでいました。その東国に鎌倉幕府を開設し、京を見返したのが源頼朝です。
師常は、桓武平氏良文流で、千葉介常胤の次男として生まれました。
源頼朝は、文治五年(一一八九)平泉侵攻の軍事命令書で「さうまの二郎」と呼んでいます。この事から師常は、文治五年以前から、相馬の御厨を支配する存在として頼朝から認められていた事になります。
相馬氏の定紋は、将門以来の「繋(つな)ぎ馬」と「九曜紋」です。
相馬つなぎ馬
九曜紋
実は、「相馬」を冠しているのは、師胤のほかに、やはり頼朝のもとに参集した上総介広常(ひろつね)の軍勢の中に、相馬九郎常清(つねきよ)の名が記載されています(『源平闘諍録』)。常清は広常の弟で、広常の父常澄(つねすみ)は御厨の支配権をめぐって常重(つねしげ)・常胤と争っていたので、常清は常澄の権利を譲渡され、「相馬」を称したと思われます。その広常も、寿永二年(一一八三)頼朝により粛清され、その一族も余波を蒙りましたが、元暦元年(一一八四)相馬九郎常清は縁座の罪を解かれました。また、野口実氏によれば、文治二年(一一八六)頃、常清の子定常さだつねは「相馬介」を名乗っていたとされ、引き続き相馬御厨の一部を支配していたとされます。
師常に関する史料は、そのほとんどが『吾妻鏡』に依存しますが、文治五年(一一八九)八月二十日に発給された「源頼朝書状」/『薩藩旧記雑録』は、相馬氏にとって大変貴重な史料なのでご紹介します。原文は、仮名書きで読みづらいので、適宜漢文を当てた全文を、岡田清一氏の『相馬氏の成立と発展』から引用させて頂きます。
「これにも着かせ給はんするに候、北条・三浦の十郎・和田の太郎・相馬の二郎・小山田の者、奥方先陣したる者共、和田の三郎、一人も漏れず、武蔵の党々の者共、この下知を違へず、閑(しず)かに寄すべし、廿一日に平泉へ着かむといふことあるべからずそうなを馳せても、敵を追いなひけても、いかでか追い着くべき、ただ津久毛(つくも)橋(栗原市)の辺まで、追い着くことやあるとてこそ仰せ給ひつれ。かまえて、勢二万騎を罷り揃うべし、案内者共申せばとて、危なきことすべからず。如何様にも、物騒がく、心々にはすることあるべからず。この御文を一人見ては、次第にやりやりして、各々御返事を申すべし。重ねて二万騎を罷り揃うべし。八月廿日戌(いぬ)の刻(20時頃)」
この書状は、頼朝が平泉を攻撃する途中に出されたもので、二十一日の平泉到着を厳命しています。当時の文書史料に師常が「相馬二郎」と記載されている事実は、師常が相馬御厨を支配していることを、頼朝に認められたことを示しています。したがって、師常は文治五年(一一八九)八月以前、相馬御厨を支配していたことになり、広常の甥定常が「相馬介」を名乗った文治二年(一一八六)六月以後、「相馬氏」が誕生したことになります。つまり、文治二年六月~文治五年八月の間ということになります。また、「相馬系図」/『続群書類従巻百四十五』に、師常の子供たちが記載されています。
矢木氏は、葛飾郡八木郷を領していたと思われます。
戸張氏は、柏市戸張を支配したようですが、詳細不詳。
戸張氏は、柏市戸張を支配したようですが、詳細不詳。
師常の事蹟は、鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』に詳細に記載されています。次に、事蹟を時系列に記します。
治承四年(一一八〇) 八月、武衛(源頼朝)、北条父子以下三百騎を相率して、石橋山に陣したまう。
九月、武衛、広常の参入を待たず、下総に向かう。千葉介常胤は、子息太郎胤正・次郎師常等を相具して下総の国府(市川市)に参会す。従軍三百余騎に及ぶなり。
十月、相模国(鎌倉市)に着御す。民家をもって御宿館に定めらると云う。
十一月、武衛、常陸国の国府(石岡市)に着。秀義(佐竹)が領所を収公せられ、軍士の勲功の賞に宛て行はると云々。
十二月、出仕の者三百十一人、また御家人同じく宿館を構ふ。
寿永三年(一一八四) 二月、源氏の両将、摂津国に到る。七日卯の刻をもって箭合(やあわせ)(一ノ谷合戦)の期(ご)と定む。大手の大将軍は蒲冠者範頼のりよりなり。相従ふの輩、千葉介常胤・相馬次郎師常(中略)巳下五万六千余騎なり。搦手の大将軍は源九郎義経なり。
元暦二年(一一八五) 正月、参州(範頼)、纜(ともづな)を解き、豊後国(大分県)に渡ると云う。
三月、武衛、東大寺修造の事、奉加物(八木(はちぼく)(米)一万石・砂金一千両・上絹一千疋)を重源ちょうげん聖人に送る。
文治元年(一一八五) 三月、「壇の浦の戦い」で、安徳天皇入水(じゅすい)、平家滅亡。
十月、二品(頼朝)、父義朝の供養のため建長寿院を建立、お布施として馬三十匹を献上、九番目の御馬を牽いたのが、千葉次郎師常。
文治四年(一一八八) 三月、鶴岡八幡宮、般若経供養の大法会(だいほうえ)を挙行、先陣の随兵千葉次郎師胤が供奉。
七月、源頼家の初めての御甲(おんよろい)を着せしめ給う、千葉介常胤、御甲納櫃(おさめびつ)を持参す、子息師常これを担ぎ前行する。
文治五年(一一八九) 六月、鶴岡塔供養の儀が行われ、千葉次郎師胤は、お布施の御馬を牽く。
八月、二品、多賀の国府(多賀城市市川)着、海道の大将軍千葉介常胤参会す、子息千葉太郎、同次郎師常ら相具し、おのおの逢隈の湊(おおくまのみなと)(亘理町)を渡り参上すと云う。
九月、二品、奥州を平定。奥州・羽州の事、勇士等勲功を糺(ただ)し、おのおの賞を行われ畢(おわんぬ)その下文今日これを下さる、しこうして千葉介、最前にこれを拝領す。およそ、恩を施すごとに、常胤をもって初めとなすべきの由、兼日(けんじつ)の約を蒙るてへり。
建久元年(一一九〇)十一月、二品の御上洛に際し、後陣として千葉介は子息親類をもて随兵。
十二月、右大将家(頼朝)、法皇・天皇に拝謁、権大納言・右近衛大将(うこのえのたいしょう)となる。
建久四年(一一九三) 正月、常胤が将軍家頼朝に垸飯(おうばん)を献じ、二郎師常も進物を献上。
建久五年(一一九四) 八月、将軍家の相模国日向山(ひなたさん)(霊山寺(りょうせんじ)、伊勢原市日向)参詣に、相馬次郎師常が随兵。
建久六年(一一九五) 三月、将軍家の東大寺大仏殿落慶供養に、千葉二郎(師常)が隋兵する。
建久八年(一一九七) 三月、頼朝、信濃国善光寺参詣、先陣の随兵千葉次郎(『相良家文書』)。
正治元年(一一九九) 正月、頼朝没す、年五十三歳。(『吾妻鏡』に記事なし)
建仁元年(一二〇一) 三月、千葉常胤卒、行年八十四歳。
元久二年(一二〇五) 十一月、相馬師常卒、行年六十七歳、端座合掌せしめ、更に動揺せず、決定往生敢えてその疑い、是念仏の行者なり。結縁(けちえん)と称して緇素擧(しそこぞ)りて集まりこれを拝す。
相馬師常は、源平合戦時、常胤に随い従軍し、頼朝の弟範頼(のりより)を大将として戦ってきました。範頼は、異母兄弟の派手な義経(よしつね)に較べ、目立った活躍もなく、戦記物にも登場する機会も少なかったようでした。ただし、壇ノ浦合戦で、平家の落ち行く先の豊後国に兵を上陸させ退路を断っています。いわば、範頼は影の功労者といえます。
千葉常胤は、のちの「九州千葉氏」誕生の先駆けとして、九州各地に論功行賞の土地を得ています。薩摩国島津庄、寄郡(よせごうり)五ケ所(薩摩川内市)、豊前国上毛(こうげ)郡福岡市築上郡上毛町、大隅国菱刈(ひしかり)郡(鹿児島県伊佐市)、肥前国小城(おぎ)郡佐賀県小城郡などです(『薩摩国図田帳(ずでんちょう)写』ほか)。
師常は、相馬御厨のほか、父常胤が奥州合戦で得た奥州の行方郡を譲り受け、のちの奥州相馬氏の領地を獲得しています。また、師常は信心深い念仏行者だったらしく、緇素(しそ)(僧と俗人)に人気があったようで、『吾妻鏡』にも特記されています。この記事から、師常は鎌倉で亡くなったようです。鎌倉の広小路には千葉常胤邸があり、巽神社周辺には、千葉一族が多く居住していたようです。
ところで、師常の容貌は女性にもてたようで、『源平闘諍録』に、こんなエピソードを記しています。
「頼朝と別れた伊東祐親(すけちか)の三女に、満座の侍の中から、誰を夫とするか指して仰せ出されよと頼朝の問いかけに、三女は師常を指差した。頼朝はあれこそ日(ひ)の本(もと)の将軍と号する千葉介常胤の次男、相馬の次郎師常とは是なりとて、師常は頼朝をば舅と思はるべし、頼朝は師常を婿と思うべしと仰せられければ、師常畏まって承知した。」
この時、頼朝は三十三歳、師常は四十四歳と推定しますが、師常は果たして初婚なのか、はたまた、再婚なのか判りませんが、師常は女性から好かれる端正な顔と推察できます。
建久六年(一一九五)三月、東大寺大仏殿落慶供養に参列した頼朝は、十万騎を引き連れたと『東大寺大仏縁起』に記されています。十万騎はオーバーにしても、鎌倉を出た頼朝の一行は、先頭が茅ヶ崎に到着したころ、後尾はまだ鎌倉を出ない有り様だったといいます。いかにこの上洛が大きな意義であったかを物語っています。
また、大仏殿落慶供養の儀式の日は大雨が降り、桟敷には同行した妻の政子だけ見物し、頼朝は宿舎に戻ったと云う(『東大寺続要録』)。東大寺門内に雑人を入れない様、警護する鎧姿の東国の武士等は、大雨に濡れてもいっこうに動ぜず。ひときわ目立つこととなったと『愚管抄(ぐかんしょう)』の慈円(じえん)は記しています。師常もその一人だったのでしょう。