二代相馬義胤(よしたね)(生没年不詳)

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 師常の嫡男として生まれる、通称五郎、あるいは小太郎。元久二年(一二〇五)二月の「元久の政変」では、北条義時に従い出陣し、畠山重忠を敗死させましたが、この時の勲功賞として、陸奥高城保(たかぎのほ)(宮城県松島町・利府町)を拝領したといいます(岡田清一著『我孫子市史研究第三号』)。
 承久三年(一二二一)、三代将軍実朝の死を幕府打倒の好機とみた後鳥羽上皇は、北条義時追討の兵を挙げました。鎌倉幕府は、直ちに、総計十九万騎を編成し京へ向かいます。この「承久の乱」の経過を記した『承久記』によると、宇治川の渡河作戦で相馬三郎・太郎・次郎の三人が戦死しています。『寛政譜』によれば、五郎義胤の戦功とありますが、信じ難く三郎は庶子家の兄で、太郎・次郎はその子等ではないかと思われます。

相馬師常のやぐら墓(鎌倉市扇ケ谷)


宇治川の古戦場(宇治市宇治)

 乱後、幕府は後鳥羽上皇を配流し、京に六波羅探題を設置し、多くの御家人を近畿・西国に派遣しました。義胤も越後守護代に就いたらしく、元仁二年(一二二五)二月の「関東下知状写」/『後藤文書』に、「前守護代相馬五郎」とあります。
また、貞応二年(一二二三)四月の「淡路国太田文(おおたぶみ)」/『皆川文書』に「新地頭相馬小次郎」とありますが、小次郎の実名(じつみょう)(諱(いみな))は不詳。
 嘉禄三年(一二二七)十二月、義胤は娘の土用(とよ)御前に対し、所領の一部を譲ります(「相馬能胤(よしたね)譲状案」/『新田岩松文書』。土用御前は、父から譲られた福島県相馬郡飯舘(いいたて)村草野および柏市手賀・布瀬・藤心・そして守谷市の野木崎の所領を持参して、岩松時兼に嫁ぎました。
 安貞二年(一二二八)七月、将軍頼経(よりつね)の三浦義村邸渡御に、相馬五郎(義胤)が供奉しています(『吾妻鏡』)。