四代相馬胤村(たねむら)(?~一二七二)

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 胤綱没後、家督相続で一波乱が生じます。各系図で、胤村の前後数代に相違があります(P.49参照)。
 胤綱は後家を貰いますが、後家は「相馬尼(そうまのあま)」といい、天野和泉前司政景(いずみぜんじまさかげ)の娘です。当時の女性は強かったらしく、先妻の子と思われる胤継を義絶(勘当)して、後継者争いが発生しています。「相馬胤綱子孫系図」/『島津家文書』を次ページに掲げます。本系図は、相馬氏の闇の部分を補っていて、三代胤綱の子孫が詳細に記載されている貴重な史料です。

「相馬胤綱子孫系図」/『島津家文書』

 この系図は、相馬親常(ちかつね)が土地問題で島津貞久を提訴したので、島津家が反論のため作成した系図です。
胤継は、初代師常と同じ次郎を名乗っている処から、孫五郎胤村より年長で、彼は正統な後継者であったと思われます。
胤継・胤村兄弟は、同時期に幕府の御家人として活躍していますが、何故か、正嘉二年(一二五八)三月の六代将軍宗尊(むねたか)親王の二所参詣に際しては、相馬七左衛門尉(胤綱)跡を天野の左衛門が勤めています。すでに、この頃胤継は義絶され、家督を継いだ胤村は病気で供奉できず、止むを得ず相馬尼は実家の天野家の左衛門を担いだと思われます。胤村は、結局、第四代当主になります。官途名は孫五郎左衛門尉、『千葉大系図』に文永九年(一二七二)八月に没しています。また、次郎兵衛尉胤継は、守谷近郊に居住していたらしく『神代本千葉系図』に、孫の胤親は、民部次郎・守屋と注記され、次男の孫の胤頼は、澤八郎を名乗っています。澤は守谷市立澤の地名から採っています。行胤の子供たちは追筆されており養子と思われます。
 『吾妻鏡』寛元三年(一二四五)八月十六日条に、「鶴岡の馬場の儀、将軍家御出、供奉人昨日に同じ、十列八番、相馬四郎兵衛尉、流鏑馬(やぶさめ)役、相馬小五郎、射手(いて)、相馬左衛門三郎」とありますが、この三人については、その名乗りから、胤継や胤村と子供たちとも考えられます。
 なお、『千葉大系図』に気になる記事が記載されています。「千葉介成胤は、相馬胤綱の所望により、将軍家の命を蒙りて、相馬家の伝領を分与した。胤継には下総国相馬郡を使い、守谷城に居する、擁護山西林寺(ようごさんさいりんじ)の妙見堂及び観音堂を修造する。擁護山は醍醐天皇延喜二年(九〇二)の草創也。胤村には陸奥国伝領の郡・村を使い、行方城に居する」。千葉宗家が勘当事件を収拾した事と胤継系相馬氏が守谷に先住していた事を示唆しています。元禄四年(一六九一)まで高野村に在りました擁護山西林寺(守谷市本町)は、創立延喜二年の古刹です。妙見堂は守谷城の妙見曲輪に鎮座していましたが、江戸時代西林寺に移管されたのち、明治二十三年(一一九〇)に火事で焼失してしまいました。この妙見堂は江戸時代の元禄三年(一六九〇)六月、移転前の西林寺を訪れた藤原為実(ためざね)が、『筑波の記』に著しています。「西林寺に平将門随身の妙見菩薩の堂有、観海といふ住僧にあひて、将門旧跡の事共尋ね聞く」。また、文政三年(一八二〇)十方庵敬順がその著『遊歴雑記』に、「籠里山西蓮寺(こもりやまさいりんじ)の二種の厨子に入りたる妙見尊」の見聞記を記しています(P.55参照)