胤村の嫡男、官途名は次郎左衛門尉、通称太郎。永仁五年(一二九七)六月の「関東下知状」(『相馬文書』)で、相馬重胤が胤門(たねかど)から相続した所領、陸奥国高村(南相馬市原町区)・堰沢(せきさわ)(飯舘(いいたて)村関沢カ)を伯父左衛門尉胤氏が横領したと訴え、鎌倉幕府は重胤の主張を認め、重胤の知行を裁許しています。
これは、相馬家の惣領を自任する胤氏の当然の行為で、弟の胤門が亡くなり所有していた土地は、惣領家に戻されるしきたりに則ったものを、横領したと見做されたと思われます。ちなみに、胤氏の官途名は次郎左衛門尉で、重胤は無冠の孫五郎です。
ところで、相馬氏の史料は、『吾妻鏡』の記述が終わった文永三年(一二六六)七月以降は、奥州相馬氏が遺してくれた『相馬文書』と、鎌倉幕府が発給した「関東下知状」だけが頼りです。
ここで、ご参考までに古文書に記載された、相馬御厨内の村名を挙げます。古文書の名のみ記します。
・下総相馬氏が、婚姻を機に娘へ譲渡した村々(相手先)
北相馬郡 守谷市 野木崎(新田岩松氏)
取手市 戸頭(摂津氏) 稲(島津氏)
利根町 横須賀(足助氏) 押戸(島津氏) 布川(島津氏)
中相馬郡 我孫子市 岡発戸(島津氏) 我孫子(島津氏) 上黒崎(島津氏) 下黒崎(島津氏)
南相馬郡 旧沼南町 手賀(岩松氏) 布瀬(岩松氏) 柳戸(岩松氏)
柏市 藤心(岩松氏・奥州相馬氏) 布施(岩松氏)
・下総相馬氏の所領だったが南朝に味方したため没収され闕所(けっしょ)となった村々(奥州相馬氏へ譲渡)
北相馬郡 つくばみらい市 筒戸
取手市 高井 大鹿
南相馬郡 旧沼南町 鷲野谷 藤ヶ谷 高柳
・奥州相馬氏の所領
南相馬郡 旧沼南町 泉 金山 上柳戸 箕輪
柏市 増尾 船戸
鎌ヶ谷市 佐津間 粟野
下総相馬氏が守谷城を居城とした考察のため、娘に譲渡した村々は、先ず除外できます。次に奥州相馬氏の所領を除外して、残りの村々が居城範囲と考えます。そうすることにより、北相馬の守谷近辺に居たと考えられます。
胤氏の兄弟・子孫が『寛政譜』に掲載されており、兄弟たちは皆、守谷近辺の地名から苗字を採っています。